レッツ ブリリアント 2008/01 第31号

発行者
精神障碍者社会復帰施設
特定非営利活動法人(NPO法人)ブリリアント 施設長 内田 秀司

住所 〒 441-8145 豊橋市駒形町字坂口56番地
TEL 0532-46-0033
FAX 0532-46-0163

URL http://brilliant-gh.sakura.ne.jp/

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平成20年1月25日発行

明けまして おめでとうございます
   今年もどうぞよろしくお願い申し上げます

施設長   内田秀司

 昨年はブリリアント創立15周年という記念すべき年でした。恒例のブリリアント祭りも大山町の総代さんのおはからいでバイパス道路の下の広い公園で行なう事ができ、大勢の地域の方々にも参加していただく事ができました。

 毎週行なっているお話会も思いがけず吉川武彦先生にお越しいただく事ができ、駒形町の公民館をお借りして、ブリリアント15周年記念「吉川先生の講演会とお話会」という行事を盛大に行なう事ができました。機関紙も15周年特集号を発行し、日頃ブリリアントを支援して下さっている方々にいろんな温かいお言葉をいただきました。

 慰問活動もほとんど寮生の力だけでできるようになり、昨年は15ヶ所(知的・身体・老人)の施設を回らせていただきました。この15年でやっとブリリアントも形ができてきた様な気がします。それは地域の方々の温かい御支援、又支援者の方々の素晴らしい御協力によるものだと思います。

 今ブリリアントは輝いています。一人一人がそれぞれの役割を持ち活躍しています。一人でも欠けたらブリリアントは成り立ちません。私はただ陰で彼らを見守っているだけです。

 どうぞ今後とも皆様の温かい御協力・御支援をよろしくお願い致します。

ブリリアント旅行記

竹内艶子(寮生63歳)

 今年もブリリアント旅行がありました。目的地は富士山近くの朝霧高原に行きました。泊まるところは猪の頭の民宿でした。途中に白糸の滝によりました。白糸の滝は氷水のようにきれいでした。白糸の滝の水は富士山からの湧き水で出来ているそうです。子供の時ある映画を見ましてその中に白糸の滝が1シーンとして出てきましたが今回ついに本物を見る事が出来、とても感激しました。車に戻りいざ冨士山へ・・・見えた富士山は霧一つかかっていなくてはっきり見えました。頂上の雪がきらきら輝いて夕日のかかったピンク紫の冨士山を見ました。私は写真でしか富士山を見た事が無かったのですが、私はこの富士山を見る事が出来てとても幸せになりました。

富士山をバックに記念撮影

富士山をバックに記念撮影

 民宿の宿にはPM5:00頃付きました。食事は鱒の塩焼きをメインとして豪華な物でした。ご飯のおかわりした人もいました。みんなと美味しい食事をしながら楽しく時間がすぎて行きました。その後は皆はおいちょかぶや、ポーカーなどしてましたが、私は眠ってしまいました。 明くる朝は冨士5湖の一つの本栖湖へ行きました。その後石の博物館などへ行きながら、いよいよ富士山5合目に行きました。私はここが富士山だと心に強く思いながら記憶に焼き付けていました。5合目は運悪く霧がすごくかかっていて、また豊橋の2月の一番寒い時と同じ位寒くて驚きました。 昼になったので下山してすぐ昼ご飯を食べました。

 私は富士山がこんなに間じかに見れるとは思っていませんでした。私にとって素晴らしい旅行となりました。ブリリアントにいられたおかげでこんな幸せな事も味わわせていただき、心から感謝しています。

富士宮市 田貫湖から見た朝焼けの冨士

富士宮市 田貫湖から見た朝焼けの冨士

ブリリアント15周年記念 「吉川先生の講演会とお話会」

世話人  内田里枝

 昨年はブリリアント創立15周年という節目の年でした。記念の機関紙も発行し、行事も何か行ないたいと思っていたところに吉川先生から「お話会に飛び込もうか。」と言うお言葉を頂き、15周年記念「吉川先生の講演会とお話会」が行なわれる運びとなりました。

 先生は精神科医でもあり中部学院大学大学院の教授でも有ります。毎週東京と岐阜の間を往復されていて、この11月29日(木)は昼からちょうど時間がとれたとのことでした。

 3時に豊橋駅までお迎えに行き、それから講演会までの間はブリリアントでスターダストのミニコンサートを聞いていただきました。寮生の歌を手拍子を取りながらニコニコ笑って聞いて下さる姿にはとても温かいものを感じました。それから愛知県精神保健職親会会長の今川宏一さんや副会長の近藤永一さんにもお越しいただき、しばし精神障碍者の社会復帰について語り合っていただきました。しかしそれは、同窓会のような和やかな雰囲気で話しも尽きないようでした。

 さ、いよいよ講演会です。平日にもかかわらず駒形町の公民館には大勢の方が集まって下さり、県会議員の小久保三夫先生のお顔も見えました。舞台の正面には夕べ近藤永一さんが書いて下さった横断幕が光り輝いています。

 吉川先生は用意した舞台の上の椅子にはかけられず「皆と同じ視線で語り合いたい。」と言われ、畳の上で立ってお話しされました。ここにも先生のお人柄が感じられます。「医者は肩書きじゃありません。患者さんが回復しなければ意味がないんです。」自らの生活を精神障碍者のために注ぎ、彼らの社会復帰のために色々な政策や改革を考えられてきた先生。本当に吉川先生はブリリアントの産みの親であり、精神障碍者の神様的存在であると思います。

 講演の最後に焼きいもの話しが出ました。先生の焼きいも好きは有名です。ある時ブリリアント祭りの模擬店に焼きいもを「いも吉」と言う名前で登場させました。すると先生から「私もついに“いも吉”にされてしまいました。」と言うコメントが届き思わず笑ってしまいました。

 講演も盛大な拍手のうちに終わり、寮生が先生に花束とおみやげの袋を差し上げる場面です。「何ですか?これは。」「焼きいもです。」「えー!!。」その時の先生のビックリされた顔、今でも忘れられません。 本当は、泊まってゆっくりして頂きたかったのですが翌日は朝早くからスケジュールが入っているという事で、先生は講演会が終わるとすぐ帰られました。

 講演会の興奮がさめやらぬうちに第2部のお話会が始まりました。公民館の畳の広間に大きな円座が作られ、寮長の鈴木光雄さんの司会で進められて行きました。常連の方もあれば今日初めて来られた方もあります。しかし皆心を裸にして一人一人語っていきました。県会議員の小久保先生からも素晴らしいお話を頂きました。

 人前でかっこいい言葉は出てもなかなか本音で話す場所は有りません。それぞれの方が今の自分を見つめてポツリポツリと語って下さいました。

 何かこの場所に同じ目標の1つの輪が出来たような気がしました。このまま心行くまで話していたい、そんな雰囲気の中、お話会はお開きとなりました。本当に素晴らしい講演会とお話会でした。さー、今度は皆さんブリリアントへお越し下さい。毎週木曜日PM6時半より、年中無休でやっております。

グループホームブリリアント・15周年を祝う

2007年11月29日  自分を語る (吉川武彦先生 講演会 レジメ)

ー“からだ”や“こころ”や“つながり”の健やかさを求め続けてきたー

吉 川 武 彦

はじめにー3つの惨めな体験と惨めを乗り越えることができた体験を語ることから始める
 1)集団疎開のときの「盗み」ー屋良朝苗さんに言われた「それは盗みとはいわない」
 2)高校1年までおねしょをした私ー沖縄で琉球放送の電話相談を受けながら乗り越え
 3)学生運動に敗れ地下に潜ろうとしたー「うちに“よしかわ”という学生はいない 」

1。惨めな体験と「自分づくり」ー惨めな体験を忘れるのではなく、克服するのでもなく
 1)集団疎開の体験ー服従を強いられ収奪され、教師がボスを操る汚さを見ながら敗戦
 2)敗戦とともに豹変した教師たちー天皇陛下からいただいた教科書に「墨を塗れ」と
 3)3代目のボスに就任して民主政治を始めたー敗戦直前の、小学校4年生のときの私

2。60年安保を積極的にに闘いー医学部学生ではあったが授業にはほとんど出ていない
 1)1960年医学部の最終学年に国会突入ー押しつぶされた「樺美智子」を担ぎ出し
 2)千葉大学医学部生がつくった医療班は彼女の最期を看取ったー語られなかった事実
 3)松沢病院の医師ー「ボロ雑巾を足に巻き付けられた」ことを得意がる医師にいかり

3。精神科医になり診察をしない医師に怒りー誰も希望しない精神病院に当たり籤をひき
 1)いった精神病院のひどさにあきれー「その鍵をはずせ」という映画を看護者に見せ
 2)持っている「鍵」はなんのための鍵かと問いードアを外に開けるた「鍵」だと伝え
 3)自分が入院したくなる病院をつくろうと夢を語ったー1962年からの私であった

4。臨床医から研究者へー行政官へ半身転進し、精神保健福祉行政と関わり、学校教育へ
 1)病院医療の限界を言語化して地域ケアを始めようとしたがー家族の壁と地域の壁と
 2)1963年全国精神衛生実態調査からー現状打破には行政の力を活用しなければと
 3)行政に深く関わりー1972年の沖縄の本土復帰、精神障碍者に不利にならぬよう

5。沖縄で学んだことーこころの健康障碍は地域の文化と密接に関わっていることを学び
 1)保育園の経験ー精神医学が教えてくれていた精神症状は沖縄では精神症状ではない
 2)精神科医が“こころの健康障碍”を治すのではないーユタが第一線の治療者だった
 3)自分を理解してくれる人の囲まれていることの心地よさーストレスが少ない社会が

6。沖縄から東京へー「お父さんがボケたんだからもう戻ってきなさい」と母からの電話
 1)沖縄では高齢者が地域で生きられるようー障碍をもつ子が地域で生活できるように
 2)精神障碍者が地域で生きられるようにするにはー地域づくりが重要な鍵を握ってる
 3)沖縄での経験を背負って東京に戻り保健所に勤務してー東京で地域づくりから始め

7。「誰もが精神病になりたくてなったんじゃない」ーメンタルヘルスの3側面から攻め
 1)ポジティブメンタルヘルスー子育ての延長上に学校あり保健師や養護教諭を核とし
 2)サポーティブメンタルヘルスー精神障碍者の支援のみならず、登校拒否・不登校を
 3)トータルメンタルヘルスー住民の意識を変えるボランティア養成から地域を変える

8。自殺の研究も忘れずにーわが国の自殺は3回ピークがあった、1958年(昭33)
 1)そのときの自殺者は2万5千ほど、その半数が20代以下ーつまり私と同年のもの
 2)60年までの55、6年から60年までーわが国の自殺第1ピークは私たちの世代
 3)第2ピークは1980年中頃ーピークを形成した私たちの世代、だからこだわった

9。東京に戻って保健所から研究所に勤務場所を変えー精神障碍者の職親の方々を支えて
 1)毎年、研究所で「職親研究会」を開きー職親の方々をお招きしご苦労をお聞きした
 2)この研究会に豊橋の職親の方々がきて下さってーその中に内田さんのご主人がおり
 3)精神障碍者はせっかく退院しても住むところがないと聞きーおれがつくると宣言し

10。まだこころ病む方々の「グループホーム」の制度がないときにーブリリアントが誕生
 1)私はその開所式にお招きを受けー講演をさせていただいたし毎年の「お祭り」にも
 2)戦時中の欠食児童ー「サツマイモ」に郷愁、ブリリアント祭りで「焼き芋」を食べ
 3)精神保健福祉法改正や障害者自律支援法がらみで来られずーそれらも一段落したし

11。1950年の精神衛生法は1965年に大改正ー精神障碍者の通院公費負担制度設け
 1)外来治療を受けやすくして地域生活可能な道を開いたー精神障碍者への偏見が強く
 2)入院は増加する一方ー1982年の精神保健法でようやく社会復帰施設設置へ結実
 3)1999年の法改正から急速に地域生活支援に向きー障害者自立支援法に到達した

12。新しい法律ができてもー理想的なことを考えてつくるのだが古い体制から抜け出せず
 1)障害者自立支援法も同じでー身体障碍・知的障碍・精神障碍に共通する政策を考え
 2)それは極めて理想的であるーそれぞれの福祉は40年も50年もの歴史があるので
 3)就労支援が目的のようになっているーでも精神障碍ではまだまだそこまでいってない

13。いま、深く関わっているのはー行政とは原子力安全委員会と脳死臓器移植検証会議で
 1)精神障碍者に関してー社会福祉法人江古田明和会の理事長として5つの施設の運営
 2)地域づくりではー地域でさまざまな相談活動をしている方を支える研究会を23年
 3)職場のメンタルヘルスは人事院でー学校メンタルヘルスは養護教諭と勉強会23年

おわりにー楽しんでいるのは泳ぎと俳句と旅、物書きが進むときは怒っているときだった
 1)泳ぎは晩学、おねしょをしていたから臨海学校に行けずー日本泳法界では結構有名
 2)俳句はどこにいてもつくれるーいま、新幹線と学バスのなかは眠るか俳句づくりで
 3)「旅」が好きで「城」が大好きなので“ボケ”ている暇ないーこれからもよろしく

仕事に対する意欲

藤田一夫(寮生58歳

 最近、朝倉商店(豆腐製造業)にだいぶ中国人の従業員が増えて毎日頑張って仕事をしています。10人位いるかな。今年平成20年も中国人が朝倉商店に入る予定があるらしい。その中に一人日本語を話せる人がいてその人が他の中国人に仕事を教えていて、一日目にして製造を覚え即戦力になっている。みんなよく働くし一度仕事を覚えてしまえば宝の山となる。朝倉商店も今や豊橋一の規模を持つ豆腐製造会社となっています。豊橋の大手スーパーにほとんど豆腐を卸しています。正月も元旦が一日休みだけであと出勤の予定になっています。

 私はありがたいことに勤めだして今までいやだと思って出勤した事がありません。ある人は天職だと言ってくれた人もいます。勤めだした当初、今まで週休二日制の会社ばかり勤めていたせいか、休みが一日しかない会社でやっていけるかという不安もありましたがそれもしだいに仕事を覚えるにしたがって解消してゆきました。私は会社に出勤する一時間前、体も心も無の境地にして仕事に対する心構えを意欲増進のため自己啓発に努めています。私は意欲的に仕事を進めていると一日が楽しく終わり、その日の印象が次の日も楽しく働こうとすると出勤するのが楽しみに変わり一日のエネルギーになるのです。

 精神障碍者が仕事に就けず、長続きする事が困難なこともあたりまえのように心の病気があるからです。長年楽な入院生活を送っていると、健常者でも仕事に対する意欲もなくなり体力も落ちるような気がします。楽な暮らしを味わってしまうと楽な方に行きたいと思う心が出来てしまいます。私は一度病気になった事はしかたないとして「前向き」に生きて行こうとする心をグループホームブリリアントの寮生活を送っているうちに学ばされました。もう一つは生きがいを見つける事です。仕事以外の趣味とか道楽でもいいです。仕事をやったらそれくらいの楽しみも必要です。私は酒もタバコもやりませんがコーヒーに凝っています。

 私はもうすぐ一年半もすれば還暦に手が届きそうな歳になりますが気を若く持てば枯れません。私の人生これからだと思い、前向きな意欲を忘れず働けるうちは仕事に頑張ろうと思います。

楽しかったクリスマス感謝祭

伊藤 剛(寮生45歳)

 去年のブリリアントのクリスマス感謝祭は、駒形町の公民館を借りて行ないました。朝から世話人さんと寮生で支度と飾り付けを行ない、昼からはみんなで料理の準備をしました。夕方からは、施設長さんの会社の西山さんがテーブルいっぱいの刺身を用意して下さいました。それらをぜんぶ公民館へ運び、夕方5時半頃からお客さんが集まり始め、6時10分に開始となりました。

仮装した施設長さん

仮装した施設長さん

 今年は僕が司会を担当したので、いささか緊張しましたが、あらかじめ原稿を作っておいたので、なんとかスムーズに開会の挨拶をすることができました。続いて施設長さんの挨拶、そして㈱丸永の近藤さんに乾杯の音頭をお願いしました。乾杯の後は、みんなで刺身やサラダ寿司、玉子スープ、チキンなどをおいしくお腹一杯いただきました。

みんなで宴会

みんなで宴会

食事が一段落した後は、清水さんのハーモニカ、田中さんのギター、飛び入りのカラオケなどで盛り上がりました。歌が終わった後には全員でビンゴゲームを楽しみました。早くビンゴになった人から、ステージに並べられた賞品を選んでもらいました。最後は、きよしこの夜をみんなで歌った後、ケーキをいただきました。

 準備はなかなか大変だったけど、来られたお客さんには充分楽しんでいただけたかなと思っています。今年も盛大にクリスマス感謝祭を行ないますので、皆様ぜひお越し下さい。

交通事故に遇って

匿名希望

 平成19年6月6日、この日は私にとって忘れられない出来事がありました。朝の通勤でいつもどうりの道をバイクで走って行き高師駅へ向かっていた時、事故はおきました。いつも通いなれた道なので危険はそう無いだろうと思い左右の確認をして走り出した瞬間いきなり車が出てきたので慌てて急ブレーキを踏んだのですが間に合わず、そのまま私は車の後方にぶつかってしまい、その弾みでバイクごと倒れてしまいました。倒れた瞬間、気が動転して手が腫れている事も気付かずにそのままバイクに乗って行こうとしたのですが時間がたち、手が“ズキン、ズキン”と痛み始めて私はやってしまったと気付きました。どうにも痛みが我慢出来なくなり、ぶつかった相手の人が直ぐに救急車を手配してくれてそのまま病院へ向かいました。

 病院に着いてからは色々な検査をし、その間冷や汗が出てきたりして大変でした。そして検査が終わり、私は先生に呼ばれ色々と話を聞いていました。検査結果は「左遠位端粉砕骨折、左手首の骨がずれていてその周辺に細かい骨の破片が何ヶ所にも散乱していると言う事で直ちに手術の必要が有りますと言う話でした。手術の方法を聞いていたら、金具を入れたりするとの話だったので「これは良くなっても大変だな」と思いながら聞いていました。

 その日はいったんブリリアントに戻り入院の準備をして次の日から入院しました。あくる日の8日に手術する事に決まったので痛くは無いか、後遺症は残らないかそればかり考えていました。

 手術当日、この日は朝から絶食だったので点滴をして手術着に着替えて待っていました。PM2時に手術室に入り全身麻酔を打たれ同時に眠気が襲いその後の記憶はなくなりました。そして気がつくといつの間にかまた部屋に戻っていて意識はあんまりはっきりとはしていませんでしたがお父さんの呼びかけには何とか対応できました。「手術成功したよ。」とお父さんが言ったので私はひと安心しました。

 次の日からリハビリが始まり、これが又すごく大変でした。約一週間入院しました。退院してからもしばらく頭の中がボーットしていて全く気力が出ませんでした。完治するまでに約2ヶ月から3ヶ月ぐらいかかると言われたので、それまではリハビリに通う事になりました。ギプスも1ヶ月ぐらい取れなかったので自由が無くなり精神的におち込んでいました。

 ギプスが取れた時はすごく気持ちが良くて今まで落ち込んでいたものがうそのように元気になれました。でも不幸中の幸いだったと思います。これがもし頭を打っていたり、足を怪我したりしていたらと思うと、これぐらいの怪我で済んだだけで良かったと思いました。

 周りを見て見ると足の無い人、手の不自由な人、他にもいろんな障碍を持った人がいます。そんな事を思うと“5体満足”という事が如何に素晴らしいかと実感しました。私も今回の事故で、命の尊さ、体が動くというありがたい気持ちを忘れないようにしたいです。そして助けてくださったたくさんの皆さんの愛情を感謝しています。これからも頑張って生きたいと思っています。

「千の風になって」

森下昌洪(一般:岩倉市50代)

 僕は、近鉄線で津の先にある久居まで、ピアノの調律に行っている。

 きっかけは、プロのピアニストである、森はじめさんが、ボランティアで障碍者のための演奏会に出演したからだ。その演奏会の世話人から、ケンチャンの所でピアノを欲しがっているという情報が入りピアノをお世話した。もう3年前になる。ケンチャンは、朝から晩までほとんど毎日ピアノを弾くので調律は相当狂ってしまっていた。

 調律が終わったら「千の風になって」を弾いてくれた。3年前に弾いた銀河鉄道の曲に比べたら、もう問題にならない位上達していてびっくりした。タッチがしっかりと安定していた。今では高校合唱コンクールの伴奏依頼が来ている。堂々としていて伴奏者として立派に通用する。以前の先生は、基礎を中心とした先生だった。今は、アレンジを取り入れた自由な発想の先生に変わったのが良かったと思う。

 アスペルガーと言う特殊な病気は、一つの事に集中すると一般の人ではかなわないらしい。先生の指導と親たち、周りの協力で、これだけ成長できた姿に感動した。

 この「千の風になって」は全国どこの会場でも歌われる名曲だ。僕は、アメリカの同時テロに関係していて、作詞作曲もアメリカ人と思い込んでいたので、絶対に歌いたくなかった。ケンチャンの楽譜を見せてもらって、完全に日本人の作品だったので、急に歌いたくなった。帰りにコンビニで楽譜をコピーさせてもらった。近鉄百貨店で秋川雅史さんの歌っているCDを買った。カラの伴奏も入っていて、10分テープで特訓している。非常に難しい曲だけれど気持ちを込めて歌いたい。

 この名曲に縁が出来たのは、ケンチャンのおかげだと思った。

初 詣 で

世話人 内田里枝

 毎年正月の初詣では岡崎のそぶみ観音とか一畑山の薬師寺とか、遠出をするのですが今年は寮生の仕事の関係で午前中しか時間がなく、近場の小松原町の馬頭観音様にお参りに行く事になりました。

 馬頭観音はかなり古く由緒あるお寺で、毎年3月末には盛大なお祭りがあり、植木の市でにぎわいます。ブリリアントから車で30分も行けば到着します。シーンと静まり返った静寂の中、苔むしたお寺が私達をタイムスリップさせるかのようにたたずんでいました。お参りをしているのは私たち7人だけ。玉砂利を踏む音やお参りの鐘を叩く音、かしわ手の音などが響いてきます。

 お堂の中をのぞくと壁面や天井に素晴らしい絵が描かれていて古き良き時代を偲ばせるかのようでした。このお寺にはこのほかにも国宝級の物が何点かあると言う話しです。

馬頭観音さまで初詣

馬頭観音さまで初詣

 お参りのあとまだ少し時間が有ったので近くにある小島の海岸に行く事になりました。 と言うのは、ちょうど今日は去年亡くなった愛犬パンダの一周忌に当たるのです。去年の正月、愛犬パンダは病気のためブリリアントと共に一緒に歩んだ14年の生涯を閉じました。私たちはパンダをこの小島の海岸に葬りました。ここに眠ったらさぞ気持ち良かろうかと思ったからです。この海岸に来たのも一年振りです。

 正月と言うのに元気のいいサーファー達が5、6人サーフィンを楽しんでいました。それから何時の間に設置されたのか風力発電の大きい風車がゆったりと回っていました。パンダが眠っているのは多分この辺だろうと思う所に、ブリリアントから持ってきた水仙の花とお菓子と、お茶を供えました。皆でお参りをしました。パンダは私達の家族でした。喜びも悲しみも共に味わった同士です。その姿は今日も私達の心の中に生きています。私たちは冷たい海風に当たりながらしばしパンダの思い出に浸っていました。初詣でが馬頭観音様になったのもきっとパンダが私達に会いたくて呼んだからでしょう。

小島の海岸で初詣の記念撮影

小島の海岸で初詣の記念撮影

 帰りは高塚の方に車を走らせました。ひょっとしたら富士山が見えるのかもしれないと思ったからです。あんのじょう雪化粧した美しい富士山がくっきりと見えました。こんなに大きく見えたのも久ぶりです。何かとても幸せな気分になりました。と言うわけで今年の初詣では思い出に残る素晴らしいものとなりました。

行事報告 平成19年7月~12月

7月

7月 1日 ブリリアント会議
7月11日 「ブリリアント」慰問(珠藻荘)
7月22日 誕生日会(バーベQ,花火)
7月28日 「ブリリアント」慰問(銀の家)
7月28日 クラッシックコンサート (豊橋市文化会館)、食事会(バーミアン)

8月

8月 5日 ブリリアント会議
8月 8日 「ブリリアント」慰問(気の里)
8月11日 海水浴(女ヶ浦海水浴場)
8月19日 イキイキフェスタ参加
8月29日 「ブリリアント」慰問(若菜荘)

9月

9月 3日 ブリリアント会議
9月 9日 コロヒラットを知ろう会参加
9月12日 「ブリリアント」慰問(和)
9月29日 「ブリリアント」慰問(ちぎリ寮)

10月

10月 7日 ブリリアント会議  
10月 9日 「ブリリアント」慰問(椰子の実)
10月23日 「のぞみ」と和太鼓合同演習

11月

11月 3日 駒形神社掃除、ブリリアント会議
11月 4日 駒形神社秋祭り参加、 シーサイド吉前文化祭参加
11月10日 ブリリアント祭り準備
11月11日 第15回ブリリアント祭り (大山町23号線バイパス下の公園)
11月17日~18日 一泊旅行(朝霧高原、 民宿「水口屋」)
11月24日 収穫祭(豊川市の畑)
11月29日 ブリリアント15周年記念 「吉川先生の講演とお話会」

12月

12月 1日 防災訓練(磯辺小学校)
12月 5日 スターダスト、カラオケ大会
12月 9日 ブリリアント会議、お話しと心の ケアX'masコンサート (カリオンビル)
12月23日 感謝祭、兼 X'masパーティ
        寮長 鈴木光雄さん断酒10年祝い。(駒形町公民館)
12月24日 クリスマスイブ カラオケ大会 (ブリリアント)
12月29日 大掃除
12月30日 餅つき大会(豊川市の畑)
12月31日 除夜の鐘(リュウネン寺)

ブリリアントにご協力いただいた方々

あいトピア様、稲地扶美子様、金原康純様、清水伸太郎様、白井千雄様、菅谷君男様、杉本龍夫様、大須賀良子様、山口京子様、豊橋善意銀行様、長尾喜吉様、河原正一様、「のぞみ」様、曽我洋秀様、位己光児様、太田睦美様、森下昌洪様、佐溝力様、吉川武彦様、近藤永一様、阿久津健一郎様、阿久津サト様、竹本節子様、竹本一雄様、藤岡公江様、竹田博様、駒形町総代様、大山町総代様、レスポワール様、有機デリバリーサービス、東海起業(株)、東海有機(株)(順不同)

ブリリアントにご寄付くださった方々

大沢芳江様、伊藤洋様、桑原与一郎様、金原光昭様、山本良美様、鈴木商店様、大村栄介様、小木曽哲夫様、曽我洋秀様、杉本龍夫様、マダム芳江様、小林芳徳様、白井千雄様、豊橋善意銀行様、レスポワール様、古関英勝様、なごみ(和)様、黒木武秀様、河合邦明様、河合きほ様、内田知様、佐羽尾様、内藤得也様、吉川武彦様、山本美和子様、気の里様、河原正一様、万久商店様、やしの実様、金原康純様、川瀬昭子様、中西壽彦様、藤岡利之様、溝口こたけ様、柳瀬実様、前田幸子様、清水伸太郎様、山根泰治様、金原秀幸様、水口屋様、珠藻荘様、加藤義光様、ちぎり寮様、㈱五光様、幸福うずら様、石塚良雄様、神谷様、小野田様、小池様、渡辺様 (順不同)

いろいろとご協力、ご支援ありがとうございました。

編集後記

 私は「病気になって社会の表面から退き、もう一度人生をやり直せ。」という事を最後のあがきの中で悟りました。ですから人生のすべての面で良い事は学習しろというポリシーで生き直すことが大切だという事を考えています。今年は妹からも年賀状が届きました。もう小6の子供もいるそうです。この間私は一体何をしてたのか考えると情けなくなります。でも、どう考えても私の人生はこの道しかありえなかったので、今は少しでも社会に御礼をしたいと思います。歌の慰問団で音響装置の解体・組み立ての仕事も単に趣味の延長線上にあるのではなく、事の重みを味わいつつより一層謙虚に努めていこうと心を新たにしました。

寮生 宇野和男

 あっという間に一月も下旬となりました。皆様は今年の目標、どんな事を決められましたか? 私は、昨年秋から少々太りすぎたので、減量を目標としました。毎朝30分の散歩をし、ご飯のお代わりをしないように心がけています。こんな生半可なダイエットでは体重は減らないかもしれませんが、すくなくとも現状維持はしないといけないなと思います。

寮生 伊藤 剛
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