レッツ ブリリアント 2008/04 第32号

発行者
精神障碍者社会復帰施設
特定非営利活動法人(NPO法人)ブリリアント 施設長 内田 秀司

住所 〒 441-8145 豊橋市駒形町字坂口56番地
TEL 0532-46-0033
FAX 0532-46-0163

URL http://brilliant-gh.sakura.ne.jp/

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平成20年4月1日発行

「シロ」と「ジュン」

施設長 内田秀司

 ブリリアントには、「シロ」という名前のネコがいます。その名の通り真っ白できれいなネコです。ネコは一匹いれば十分と思っていたのに、もう一匹、寮生が拾ってきてしまいました。生まれたばかりの赤ちゃんネコで、毛もまだ生えていませんでした。鶏の卵より小さく、注射器でネコのミルクを飲むのがやっとでした。名前を「ジュン」とつけました。

 ジュンはシロをお母さんと間違えてオッパイを捜します。そして吸うのだけれど乳は出ません。シロは雄ネコだもの。しかしシロはじっとジュンにオッパイを吸わせていました。シロのオッパイは赤く腫れ上がり、血がにじんでいました。それなのにシロは夜誰もいなくなるとジュンをペロペロとなめ回し、毛繕いをしてやるのでした。真っ白なシロのおなかに茶色のブチのジュンがスッポリとおさまっている様は、おかしくもあり、又感動的でもありました。

 動物の世界では親子も他人も関係ないんだなと思いました。弱いものを守る。小さいものを助ける。これが常識なんですね。

 ジュンはシロに育てられたようなものです。シロが母親役をしてくれたのです。その小さくて育つかどうかわからなかった赤ちゃんネコのジュンが、今ではシロの二倍くらいの大きなネコになっています。シロは弱々しくやせているのにジュンは筋肉リュウリュウで雌なのに雄のようないでたちです。しかし、シロに育ててもらった事は覚えているらしく、一目置いています。いつも二番手に控えています。

シロ

シロ

ジュン

ジュン

 今、人間の世界では動物の世界にも劣るような現象がいっぱい起こっています。本当の親子なのに、ののしり合い、殴り合い、殺人さえしてしまう事件が後を絶ちません。畜生にも劣るとはこの事です。

 私はこの二匹のネコを見て、人間の生きる道を教えられたような気がしました。そして、誰にでも愛、すなわち仏性が宿っている事を実感したのです。シロのジュンに対する優しさこそ無償の愛だと思います。

 私もブリリアントの寮生に絶えることのない愛を与え続け、いつか社会に羽ばたいて行けるよう指導していきたいと思っています。

断酒十年「布施行の光雄さん」

世話人 内田里枝

 鈴木光雄さんはアルコール依存症という病気です。彼は半農半漁の漁師の家に生まれました。手漕ぎ船に乗って漁を手伝っていたので、中学生の時には、同じ年頃の子供など、相手にならないくらい足腰が強くなり、相撲も負けたことはありませんでした。そして、当時前途有望だと言われていたハム会社に就職し、職人としての技術を身に付けていったのです。元来手先も器用で、頑張り屋の光雄さんは同僚をどんどん追い越し、出世していきました。

 九州にも支社ができ、そこで活躍していた矢先のことです。ある日、冷凍庫の肉の塊が荷崩れを起こし、彼は右足に大ケガをしてしまったのです。そのせいで、それからは足を引きずらなければ歩けなくなってしまいました。酒におぼれるようになったのはそれが原因だと思います。来る日も来る日も酒をあおり、酒の飲み過ぎで手が震えるようになり、包丁で肉をさばくハム職人としては使い物にならなくなってしまいました。仕方なく名古屋へ行って、鳶職をやることになったのです。しかしお酒は止まらず、毎日飲み続けていたので幻覚・幻聴が出て、三十二歳の時、やむなく精神病院に入院しました。体が良くなって退院しても、大好きな酒をやめられずに飲んでは又入院するということを繰り返していました。

 ある時、もうこんな自分は生きていてもしょうがないと思い、四十二歳の正月の朝、海に飛び込みました。しかし、革靴を履いて、オーバーを着ていたのにもかかわらず泳いでしまい、漁船に助けられました。光雄さんはやはり漁師だったのです。危うく一命をとりとめたものの、脳血栓を起こし、右半身不随の植物人間のような体になってしまいました。

 誰よりも体に自信があり、何でもこなし、将来を期待されていた人間が、何をするのにも「お願いします」と頭を下げなければ生活できない体になってしまったのです。光雄さんはしだいに無気力の、表情の無い、ただ惰性で生きているだけの人間になっていってしまいました。そんな生活が六、七年続いていたようです。しかしその彼を救ったのは一人の優しい看護士さんでした。毎日寝ているベッドに来ては一時間ぐらい「鈴木さん、もっと前向きに生きなければダメ。生きてさえいたらきっと良い事があるから」と彼を励まし続けてくれたのです。その彼女の涙ぐましい努力が実り、光雄さんはしだいに「生きよう」という気持ちが湧いてきたのです。

 ある日、今まで動かなかった手の指がピコッと動きました。「ひょっとしたら体が動くようになるのかもしれない」それから彼のリハビリが始まったのです。「もう一回生きてみよう」と決心したのです。 そうすると、今までボヤッとしていた頭も冴えてきて勇気も湧いてきました。そしてある養鶏所で卵取りの仕事をさせていただくことになったのです。動かない方の右手で卵をつかんでカゴに入れるリハビリを二、三年したでしょうか。もうこれなら働けるというところまで回復して、私の主人の経営するウズラの農場で働くことになったのです。ウズラのヒナの世話をする仕事を五年くらいしていたと思います。でも、あの当時を思い出しても光雄さんはまだ表情のない能面のような顔をしていました。笑った顔など見たこともありませんでした。その頃、このグループホームブリリアントができ、光雄さんは最初の住人となったのです。

 ブリリアントに入寮してからも彼のリハビリは積極的に続けられました。仕事のかたわら毎日、近くの神社の石段を登ったり降りたりして訓練していました。やっとスムーズに歩けるようになったと思いきや、平成九年にまた酒を飲み過ぎて精神病院のアルコール病棟に入院したのです。 しかし、今度こそは断酒会とつながることもでき、その日からは酒をキッパリと断ちました。ちょうど昨年の十二月で断酒十年になります。

 三ヶ月の入院の後、ブリリアントに帰ってから、彼の第二の人生が始まりました。  しかし運命は皮肉なもの、断酒して生活を改めても過去に飲んだアルコールのために、光雄さんの体はボロボロになり、どんどん症状が進行していってしまうのです。平成十三年に吐血して病院に運ばれました。動脈瘤破裂です。生死の境をさまよいましたが奇跡的に助かり、またブリリアントに帰ってくることができました。やはり彼にはまだお役目が残っていたんですね。

 今、光雄さんは毎朝竹ぼうきを持ってお宮様に出かけます。今こうして自分の体が動くのはお宮様の石段を登り降りさせていただいたおかげと、毎日境内を掃除しています。境内どころか参道までもきれいに掃き清め、町内の人達に喜ばれています。すると、雑木を切ってくれる人が現れたり、草むしりを手伝う人が出てきたりで、お宮様はとても明るい所になりました。すると光雄さんは、今度は参道の両側に小菊を植えました。毎年、秋祭りの時には綺麗な花を咲かせ、道行く人々を楽しませてくれています。

 彼のおかげでブリリアントの株も上がり、町内の人達皆に感謝されるようになりました。時々、総代さんからも届け物があったりします。断酒十年の光雄さんは、今では断酒会の副会長としてアチコチかけ回り、アルコール依存症に苦しむ人達を救っています。入会して、まだ元気のなかった人が、しだいに明るく前向きになっていく姿を見るのが一番嬉しいそうです。平成十五年にはその功績がたたえられ、表彰を受けています。

 ブリリアントでは寮長として、又お話し会のリーダーとして寮生を束ねています。仕事も退職した今は、ブリリアントの畑でおいしい野菜を育て、又季節ごとに色とりどりの花を咲かせ、皆に喜ばれています。

ブリリアントの野菜畑で働く光雄さん

ブリリアントの野菜畑で働く光雄さん

 光雄さんのモットーは、「がんばらない、あきらめない、夢を捨てない」です。夢はかなえるもの。自然なゆったりした気持ちが幸せを呼ぶのだそうです。「今までの人生で一番のキーポイントは何ですか?」とたずねると、「脳血栓で体が動かなくなった事」だそうです。動けなくなって初めて「我」が取れたようです。そして頭を下げることができ、皆に感謝できる自分に生まれ変われたのだそうです。「今ではアルコール依存症になった事も脳血栓で右半身不随になった事にも感謝できる自分になりました」と笑顔で語る光雄さんです。今やこの笑顔は彼のトレードマークになっています。

 私はブリリアントで世話人として生活を共にし、彼から学ぶことがたくさんありました。まさに光雄さんが現在している事は精進事です。自分は無く、ただ人の為に、人が喜ぶ為に何ができるか、それのみを実行している人です。アルコールでボロボロになってしまった体に鞭打って、皆を救い、喜ばせる生活、これこそ布施行ではないでしょうか。「私は百歳まで生きる」この言葉にこれからどれだけ多くの人達が救われていくのでしょう。まさしく彼はブリリアントの光、断酒会の光、世の光です。

杉本先生の想い出

伊藤 剛(寮生:45歳)

 訪問交換グループ「ブリリアント」の監督を務めて下さっていた杉本龍夫先生が亡くなられてから、2ヶ月あまりが経ちました。振り返ってみると、杉本先生は本当にブリリアントのためにいろいろな形でご支援をしてくださっていたのだなあと思い知らされます。まず、慰問活動の舞台総監督です。寮生のコーラスグループ「スターダスト」の合唱やソロの歌唱指導、ギターソロの弦のチューニング、そして本番の時の音響機器の調整、PAの仕事等々。トレードマークの赤い野球帽やテンガロンハットをかぶってミキサーのコンソール盤の前に座っていた姿を今も鮮やかに思い出すことができます。

 また、慰問の行き帰りには自ら車を運転して寮生を会場まで送迎して下さいました。緑色のワンボックスカーで、ジャズをかけながらご機嫌でタバコを吸われていた横顔も忘れられません。さらに杉本先生は、慰問活動を行っていくにあたり、パソコンの音楽ソフトウェアを駆使して、懐メロから童謡・唱歌、歌謡曲に至るまでオリジナルのカラオケをたくさん作って下さいました。加えて、エクセルという表計算ソフトも使い、これまでに訪問した施設の名前や日時、その日のプログラムなど、膨大な資料を整理しておいてくれました。プログラムには、当日歌う曲名、所用時間、司会の挨拶文などが整然と入力されており、一回の慰問で誰が何を歌ったり演奏したりして合計何分で収まるかということが一目でわかるように計算されていました。これらのデータは、現在ブリリアントに寄贈されており、今後の慰問活動に活かされています。

 また杉本先生はビデオや画像編集なども得意で、ブリリアント祭りのビデオをパソコンに取り込んで編集し、DVDに焼き付けてくれたりもして下さいました。慰問が終わると、帰り道、いつもたいていアピタかジャスコに寄り、飲み物を頂きながらその日のステージの反省会を行うのが恒例となっていました。寮生一人一人の歌やギターの出来具合を講評し、貴重なアドバイスをたくさんいただきました。

 僕が一番印象に残っている想い出は、田原市の「椰子の実」という施設に慰問に行った帰りに、白谷の海岸で記念写真を撮り、その後で田原の風車を見に行ったことです。僕は風力発電の風車があんなに大きなものだとは思っていなかったので、本当に驚きました。

 杉本先生の葬儀の時、ブリリアントの寮生は、「千の風になって」を歌い、先生をお送りしました。僕が毎日の仕事から帰る時、国道23号線のバイパスから田原の風車群が見えるのですが、それらを見るたびに、ああ、杉本先生が風になってあの大きな風車を回し、がんばれ、がんばれ!と言ってくれているように思います。

 杉本先生、あなたが私たちに遺して下さった数多くの貴重な財産をこれからも大切にして、慰問活動をがんばって行きたいと思います。どうか、どんな場所からも私たちを見守っていて下さい。

曽我洋秀(支援者:鍼灸師)

 2007年1月1日、長男に誘われて、岡崎の薬師寺に参って、今年もご縁のある患者さんの健康が守られますよう祈ってきました。そして、2日の朝みた夢は、鮮明な色つきで内容もしっかり覚えておりました。5日には新潟大学の安保徹先生より、「病気は生き方の偏りを教えてくれる有り難いものです。」と励ましのお手紙を頂き、日本ウェラー・ザン・ウェル学会を紹介され、3・4・5月と名古屋・東京へ行き、忙しくて夢のことは忘れておりました。

 しかし、ある患者さんの治療を進めているうちに、こころが閉じてしまいそうな気がして、これはなんとかせねばと二人で作戦を練りました。そして出てきた答えが、自宅を開放して「コミュニケーションスペース」を開いている施設へ行く、その日のうちに電話して二人で出掛けました。

 そこでお話を進めているうちに、ブリリアントのこと、心の健康サロンの話が出てきました。それらにも参加しようという話になって、7月にブリリアントのお話し会に参加しました。そこで驚いたことに1月2日に見た夢そのものなんです。これはなにか意味があるんだろう、としばらく時間が許す限りブリリアントのお話し会に参加させていただきました。9月より「病気を治せる医学」安保徹の勉強塾をひらけることになり、そこにブリリアントの世話人の内田さんも参加され、NHKの「教育スペシャル-人間はなぜ治るのか」を見られ、ブリリアントの寮生もそのビデオを見て自分たちも治るのではと、ぼくの提案した「セロトニントレーニング」と安保徹先生の爪もみ療法を実践するようになり3ヶ月になります。

 そこで、吉田松陰のこの言葉を思い出しました。

夢なき者に理想なし。理想なき者に計画なし。計画なき者に実行なし。実行なき者に成功なし。故に夢なき者に成功なし。

 10年ぶりに勉強会も復活し、「自らの努力によって病気を治した人は、病気になる以前よりいっそう、心身ともに健康で幸せな人生をおくることができる」をめざしています。50歳になり、天命と思われるような夢を見させていただきわくわくしております。ブリリアントのみなさん一人ひとりが輝けるようねがっております。 ありがとうございました。2008年2月22日

私の人生白書  H20ー3月

宇野和男(寮生43歳)

 私は、グループホームブリリアントに住んで居ます。宇野和男と申します。今43歳です。

 これから発病のいきさつから現在までを順にお話ししようと思います。 まず私は子供時代に両親の離婚を2回経験していまして母親の愛情をほとんど味わった事がありません。その事から自分は他の子と比べて「自分が劣っているからそんな目に合うのだ。」「もっとできの良い子供だったらきっと母も私を捨てなかったのだろうなあ」とも思います。これが小学校2年生の時に覚えた、劣等感で、いつも強く覚える事になりました。又勉強が大嫌いで宿題はサボってばかりいました。でも小学校3年の時算数の試験で100点満点中8点と言う事を体験してから、自分から「母さん僕そろばん塾へ行かしてほしい」と頼み込んで家の近くの塾へ通い、日常での計算に困らなくなったところで自己満足してしまい、塾をやめました。その頃3人目の継母と出会い、「男は大学を出なければ駄目だ」と言う事で毎日添削プリントを2枚やり、それから遊ぶ事にしました。中学の頃にはガリ勉になっていました。しかしここが重要なのですが、同年代の友達が一人もなくて、学力だけで人を判断するようになってしまいまして、中3の受験の頃には300人中18番まで成績を伸ばしましたが年頃の普通の会話や趣味を持てずに、クラブは放送部の部長をやったくらいでした。年齢相応の社会的常識、友達との繋がり、親と子のまともな会話のどれもなかったため、人間としての人格の成長が小学校のそろばん塾の頃から全然成長してなくて、今考えるとその心の脆弱さが私が発病するきっかけになったのではないかと思います。高校は進学校だったので、心の弱い私でも勉強だけしてれば問題はおきなかったです。しかし、高校3年の時特進クラスに入り、授業のレベルが高くなると付いていけなくなって、やむを得ず不本意な東京の理科系短大へ行きましたが、ここでも大切な事が有ります。それは普通の大学生はアルバイトばかりしていると思いこんでいた両親が私を、受かった学校が適当でもなんでもいいから、経済的にも人間的にも他人と思って自分で全部責任とってやっていきなさい。と家から追放されてしまったという事があります。

 ここでまとめるとまず、人間的に親から「お前は望んで生まれて来た子供ではないと言うプレッシャーを魂ごと染め上げられて自分の価値観、人生観を育てる時間が全くないままに社会に放り出されたと」言う事です。ですから短大は不登校で毎日、新聞配達と集金をしながら浪人として又人間の再生としても貴重な1年半(4月に入学して自殺未遂を起こすまでのこと)を過ごしました。働いた給料でお金には困ってなかったのでこれまで特に父親がバカにしてきて、僕もそう染め上げられた、あらゆる世界にとびこんで行きました。干渉する人が距離的にも誰もいない東京で一人になって、全身で真実の経済社会をまざまざと見いだしていきました。それは月平均2万円から3万円を文庫本、コミック、映画につぎ込んで自分の学力中心主義はいけない考えだと言う事を文明開化のように体験し、その上で自分がその当たり前の人間になれるにはどうしたらいいかわからず、催眠術にかかったり精神科に駆け込みましたが望むような結果ではありませんでした。

 私はみんなと違った価値観で暮らし、変人扱いされ、事件を起こすに違いないと思いそれより先に自殺すれば良いと気づき、19歳の11月14日の夜12時に風呂場でカップ酒5本飲んで酔いが回ってきたところで新品の包丁で左手首を思いきり切り付けました。「みんな、みんなさよなら~」と淋しい別れを思いつつ鮮血を流しっぱなしのまま眠ってしまいました。結局助けられ、一命を取り止めましたが左手の神経がそれ以来しびれっぱなしです。その後実家に一度はつれかえらされましたが、新しく正しい価値観を持った私には、両親の貧困さから、また低学歴から来る強情さはあきれまして、ちょっとした事ですぐまた口論をして追い出されまして、新聞店に住み込みで働きつつ河合塾へ一年通い、名古屋工業大学を受験しました。給料3万円で食べるものは10円でもらってくる食パンの耳をカレーのルーを溶かしてその中にいれ食べるような食生活でした。そんな中から受験料12800円を支払い、学問に没頭しました。今思うとあんな事良くできたなあと思います。その頃の現実は悲惨なものでしたが夢がありました。友達をたくさん作る事、成績はTOPを・・そして恋もしたいなどなど。合格してはれて大学一年生の時は女子短大の女の子たちと2ヶ月に一度はコンパをしました。いい思いでもいくつか有ります。しかし専門課程に入り再び勉強が忙しくなると又学問出来る人の方が金持ち、車持ちより偉いと言う、親がやってしまった価値観の失敗を私もあじわってしまったのです。

 大学の研究室でフォートラン言語で有限要素法によるガラス溶融炉の3次元温度解析をしていたのにまだ新聞配達をしなくちゃいけないのか・・・どこまで俺は不幸者だと嘆きました。父親に対しては「死んで償え」と毎朝朝刊を配りながら強く思っていました。でもこれまでの努力の結晶である成績表は優、良、可のうち(特に数学、物理、半導体工学などで)“優”が90%あり、関西から中国地方に工場をたくさん持つステンレス鋼板で有名な日新製鋼と言う会社が「当社に就職するなら60万円の無償の奨学金を出すから、仕事はやめて研究に全力をいれなさい」と言う助け舟が出まして無事卒業できました。

 しかしいざ入社してみると見た事もないサラリーマン社会がありましてそう言う世界に全然なれてなかった私は毎日自己嫌悪から来る吐き気との戦いで、自分で出社する事は、「毎日死にに行くようなもんだな」と思っていました。それで一般の薬局で売っている高い値段の精神安定剤を買って飲んでいました。

 そんな私ですが、駄目な事だけではありません。センサーをたくさん付けた溶接機のデータ解析を自分で買った当時最高速度のパソコンで行ない、溶接不具合の原因を着きとめ、再現実験や改造工事の設計、監督をしまして劇的に溶接が安定し、社長表彰と一金10万円を頂きました事も誇りに思う思い出です。その後4000万円の予算の付いた鉄板を銅メッキするラインの整流器20台をリプレースする事を任されました。それが最後の仕事になってしまいました。銅メッキした鉄板は、エクステリア関係の母材で、また建物の屋根などに需要があるのです。問題は、現場のラインとその設計図が食い違っており、どちらが正しいのか分からないので改造設計が、全然前に進まないと言う追い詰められた私は、これは霊障碍だと決め込んで、近くにいる人が何かいうとそれが自分に関係している事を比喩的に言っているのだと思い込んで、状況が悪くならないうちに先手を打ってなにかしら対抗策をうっておくという生活になりました。こういうのを「他人が話している事が自分の事を話しているような気がする。」という項目は統合失調症だと言う事で、精神病院に入院という事になり、そのまま3年が過ぎ、企業内規により解雇となりました。お金のほうは心配しなくても良かったです。と言うのは3つの生命保険にかかっていたので入院保険金700万円ほどお金が入ったからです。

 精神病院の中では人格の修正が一番キーワードとなりまして、10年経ってやっと普通の人間になれました。でもまだ傲慢で言いたい放題と言うところまでは直っていませんでした。双子の兄貴がブリリアントに入居したのをきっかけに私も毎週金曜日は可知病院からブリリアントまで、遊びに来ていました。でも空き部屋があるから私も入居したらどうですかと言う言葉に恐れをなして、僕は一生精神病院で暮らすんだと思い込んでいました。

 最終的には兄貴が全責任を負って私をブリリアントに入居させました。障害年金、生活保護、障害者手帳、荷物の運搬などほとんどの事を可知病院のケースワーカーの中住さんと兄貴がやってくれました。そしてブリリアントの世話人「内田里枝」さんからも「お兄さんと一緒にここで頑張って見てはどうですか」と言う直筆手紙も貰いまして心まで揺り動かされまして、ついに自然な形で入居させて貰えるようになりました。

 私の趣味はオーディオでして今ブリリアントで頑張っている歌の慰問団が月に1,2回ありますが音響機器の解体組み立てと、プログラムに沿った機器操作は私がやっています。音響機器を触るのはとても楽しいし如何にバランスよく音を出せるかと言うことにどれだけ集中できるかが醍醐味なのです。将来的に仕事をするような事があるとしたらやはりオーディオ歴30年の私には音響機器操作しか残ってないなと思います。それは永遠の夢です。ブリリアントのメンバーがいい人ばかりになり、いつまでもお山の大将では孤立してしまうと気付いてからは、謙虚、奉仕、平和、調和、喜びなどをキーワードに本格的に人間再生を改めて自分自身で行い、今では施設長、世話人さんやメンバーとも良好な関係が築かれ、毎日が嬉しくて幸せで楽しいです。

 振り返って思うと学生時代に一人で全部やったのは世の中を知るきっかけになりましたし、精神病院に何年も居た事は性格を直す事に繋がり、そしてブリリアントに来てからは、常識と喜怒哀楽のある普通の人間になれました。社会のレールからは外れてしまったけれどこの道をとおらなければとんでもない人間になっていたと思います。今は、いち障碍者としてひそやかに生きて居ますがとても幸せです。これからもブリリアントを卒業できる日が来るまでは明るく楽しく幸せに寮生として生きて行こうと思います。

私の生活

竹内艶子(寮生63歳)

 ブリリアントに入って2年8ヶ月になります。ここに来た時は夕食の前に五心(生活の上の心がけ)を唱えてから食事をします。私は、何を言うのかと思って初めてこんな生活があるのかと思いました。鶏も居ます。ウサギも居ます。ウサギにクズの葉とか、白菜とか、キャベツをあげます。その2匹のウサギも2年も生きないで死んでしまいました。

 また、パンダという猟犬も死んでしまいました。私はとても寂しく思いました。でもジェニーという犬が居て寂しさも紛れます。また毎週木曜日に「お話し会」が有ります。そこに来られた方で豊橋市内で鍼灸師を開業している先生が来て下さいましたが、その先生が、寮生の回復を思って土曜日にも勉強会に講師として来て下さいます。私はとても先生に感謝をして、とても勉強になります。

 ブリリアント旅行としては茶臼山と富士山に行きました。私はとても楽しい生活をしています。去年の11月からは朝7時から30分間ウォーキングをしています。私は3キロ痩せました。この規則正しい生活が精神的にも良くなって、再入院をしなくてもいいと今では思います。私のストレス解消法は夜、顔のマッサージをしたり、パックをしたり、たまには服を買ったりして自分自身の心を楽しくして生きることです。一人暮らしよりみんなと暮らしてた方がいいと今では思います。そして健康ならいいと思って幸せだと思って暮らしています。みんなの幸せがあってはじめて私の幸せがあると今では思っています。これからも進歩的に生きていこうと思います。

魅力あるシャンソンとは

森下昌洪(一般:岩倉市:61歳)

 観客が心から酔うようなシャンソンを歌いたい。シャンソンは感性が観客と歌い手と一致した時に心地よくなると思う。毎日の生活の中で如何に感性を磨いていくかに掛かっている。

 毎日聞いているフランス人のシャンソンには各々違った感性の持ち主が歌っている。日本人歌手は綺麗に間違いなく技術を重点的に歌っているようで、感動が本当に伝わる人が少ないように思う。

 技術中心者はまともすぎて、いくら発声を勉強してもそれは物理的な発声であり、 やたらと声が大きいだけの人が多い。言葉としての声量でないと、非常に耳障りに聞こえて、雑音になる。その曲との中に完全に一体化するまで徹底的に言葉を中心に語れるように歌ったならば無の境地から発せられる口で言い表せない魅力が出ると思う。シャンソンにはまり込むことと、観客を意識する訓練を心がけたい。

 自分を意識している間は、間違ってはいけないとかリズムに乗れないとか雑念が入る。

 徹底的に歌い込んで意識した世界から、無意識の世界まで行くことができれば、自然に魅力が表現できるだろう。

朝の散歩

匿名希望

 ブリリアントでは寮生と世話人さんが、毎朝7時から最低でも30分散歩しています。

 私は平日は仕事があるので6時20分頃からスタートしています。  以前は皆が歩いていても私は関係ないと思いながら過ごしていましたが、日増しに他の寮生が元気になっていく姿を見ていたら、私も負けてはおれないと、覚悟を決めて散歩することにしました。最初の頃は朝なかなか起きることが出来なくて毎日ぎりぎりの時間に起きてはブリリアントの周りを一周するだけで終わっていました。

 でもそれだけでは物足りないと思うようになり、今では毎日30分じっくり歩くようにしています。

 行く先々で色んな景色を楽しんだり、恒例の犬とであったり、その飼い主の人と朝の挨拶をしてとても気持ちが良くなります。でも中にはどうしようもないほど凶暴な犬もいたりします。その家の近くに行っただけで突然猛烈に、牙をむき出しにして、般若のような顔をしてヴォーと吠え続ける犬もいます。私が連れているブリリアントの愛犬ジェニーが全く動揺せず、友達になろうとして近づくのですが、ますます猛り狂うばかりです。 また、“友達の犬”と私たちが呼んでいる老犬がいます。その犬とはとても仲良くほのぼのと遊んでいます。たまにジェニーなしでその家の前を通ると、「あれ?ジェニーちゃんは?!」と寂しそうにしています。

 ジェニーの散歩はにおいの旅で、いつ帰れるか分からないので、平日は艶子さんにお願いしています。今ではこの交代制がとてもうまくいっています。

 実際すでに散歩によって体調が良くなりました。

 朝日を浴びてのリズム運動が一日のスタートとしてものすごく効果があるらしいので、この日課だけは、三日坊主にならないように続けていこうと思います。

健康新聞  病気を治す「体の声」の聞き方

安保 徹  新潟大学大学院医学部教授

免疫を高めるちょっとしたコツ。
医師に聞く前に体に聞く。
とにかく笑う
温かい飲み物を飲む
体温プラス4℃のお風呂にゆっくり入る。
散歩の途中で空を見上げる。
薬はなるべく飲まない。
気付いた時に爪もみをする。
相手を変えず自分を変える。
たまには温泉に行く。
意識して深呼吸する。
仰向けに寝る。
「有り難う。」ときちんと言う。

小さい積み重ねが自分の人生を大きく変え、体を健康にしてくれます。

マキノ出版 (2005/12) 刊より引用

私の嗜好品について

藤田一夫(寮生57歳)

 私は昭和44年に名鉄に入社して、付き合いでお酒を飲むようになりました。仲の良かった先輩と付き合うようになり、喫茶店に行ったりお酒を飲むようになりました。同じ名鉄グループのホテルでお金を使うということで助け合う精神で忘年会・新年会で飲んだ時がありました。でもこの20年くらいはあまり飲まなくなりました。私はまだありがたいことにアルコール依存症にはなっていないように思います。やめろと言われたらお酒はやめることができると思います。でも、常日頃は飲みませんが、お祝い事がある時には飲みたいと思い、必要以上に飲まないようにしています。また、タバコはヘビースモーカーであった父を真似せず、タバコは吸ったことがありません。

 タバコもお酒もあまり飲まなくなったせいか、コーヒーを飲むようになりました。私が初めてコーヒーを飲んだのは、小学校6年生の頃、妹と名古屋へ遊びに行った時、名駅の構内にあったレストランでサンドイッチとコーヒーを頼み、これが大人の味かと思いながらコーヒーを飲んだことがあります。私のコーヒーの飲み方は、以前はブラックばかり飲んでいましたが、今はコーヒーに砂糖を入れず、ブラックにミルクを入れるだけにして飲んでいます。エスプレッソを飲むときだけは砂糖を入れます。喫茶店で20年越しの店もあれば3年の店もあります。同じ店でも体調のかげんでおいしいと思う時となんとも思わない時があります。今までコーヒーを飲んで来て、たまに幸せを感じる時があります。コーヒーでもいろんな種類のコーヒーがありますが、飲み比べてみてどこの産地のコーヒーであるか当てることができるほどのコーヒー通ではありません。今ではポットとコーヒーを点てる道具を買って、おいしい喫茶店で豆を挽いてもらって自分の部屋でも飲んでいます。他の寮生にも分けてあげています。私のストレス解消と安らぎを得られるひとときでもあります。

行事報告 平成20年1月~3月

1月

1月 1日(火)初詣(駒形神社)、ヨーカドーショッピング
    3日(木)初詣(馬頭観音)、小島海岸散策、新春カルタ大会
  12日(土)ブリリアント会議
  13日(日)佐溝力さん展示館見学、誕生会(カッパ寿司)、 杉本先生お見舞い
  16日(水)「ブリリアント」慰問 (気の里)   
  29日(火)杉本先生通夜    
  30日(水)杉本先生葬儀

2月

2月 2日(土)ブリリアント輪読会     
    3日(日)豆まき、太巻き寿司作り実習
   14日(水)「ブリリアント」慰問 (福寿園)
   16日(土)ブリリアント輪読会    
   27日(水)「ブリリアント」慰問 (和:なごみ)

3月

3月 1日(土)宇野和男君体験発表「手をつなごう会主催」(さくらピア)
    2日(日)健康フェスティバル「ハート・イン・東三河」 (蒲郡文化会館)、
         梅見(向山梅林公園)     
    9日(日)映画上映会「1/4の奇跡 ~本当のことだから~」 (カリオンビル)、
          ボランティアグループ「ふれあい」主催    
   11日(火)「ブリリアント」慰問 (豊橋ケアセンター)    
   18日(火)和太鼓の練習(さくらピア)    
   25日(火)「ブリリアント」慰問 (やしの実)

ブリリアントにご協力いただいた方々

フラメンコスタジオ「アジュン」様、曽我洋秀様、河原正市様、長尾喜吉様、菅谷君男様、森下昌洪様、清水伸太郎様、白井千雄様、位己光児様、太田睦美様、稲地扶美子様、あいトピア様、豊橋善意銀行様、有機デリバリーサービス、東海起業(株)、東海有機(株)

ブリリアントにご寄付くださった方々

マダム芳江様、林香代子様、万久商店様、河原正市様、太田睦美様、小林芳徳様、白井千雄様、ヤマコ包装資材様、兵藤昇様、清水伸太郎様、村川二三代様、山口京子様、岡本様、北川藤良様、荒木様、佐羽尾様、伊藤洋様、曽我洋秀様、杉本様、レスポワール様、柳瀬実様、金原光昭様、金原秀幸様、金原康純様、なごみ様、気の里様、豊橋社会福祉協議会様、豊橋善意銀行様、有機デリバリーサービス、東海起業(株)東海有機(株)

いろいろとご協力、ご支援ありがとうございました。

* 毎週木曜日PM6:30よりお話会を行っています。一般の方の参加も自由ですぜひお越しください。TEL0532-46-0033までお申し込みください。 (参加費は無料です。)

編集後記

 前回、一障碍者として生ききると宣言したのに、実はそれは頭の中でのシミュレーションに過ぎなく、実際の心はまだまだプライドが高く、障碍を抱えて色々なことが十分できない、だから許して下さいという魂の叫びが本物でなく、いつまで経っても進歩がないことに気付かされました。 それは自尊心の放棄でもあります。これまでの苦労、今回この機関誌にも少しご紹介しましたが・・・を考えると「くそう、やっぱり俺も全人格的に障碍者になってしまったんだ!!」と心の底でぎりぎりの苦しい葛藤を味わいました。障碍者は私も含めて福祉関係の健常者に対しては謙虚の気持ちを忘れない様にしていきたいです。

寮生 宇野和男

 待ちわびていた春がやっと来ました。桜も咲き、一年のうちで一番嬉しい季節です。この冬は、一度躁病の発作がきましたが、早朝の散歩と規則正しい生活、服薬のおかげでなんとか乗り切ることができました。発作の最中はとても苦しいのですが、今は快適に過ごしています。季節がら、花粉症に悩んでいる人も多いかと思われますが、どうぞお体には気をつけて下さい。

寮生 伊藤 剛

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