レッツ ブリリアント 2007/10 第30号

発行者
精神障碍者社会復帰施設
特定非営利活動法人(NPO法人)ブリリアント 施設長 内田 秀司

住所 〒 441-8145 豊橋市駒形町字坂口56番地
TEL 0532-46-0033
FAX 0532-46-0163

URL http://brilliant-gh.sakura.ne.jp/

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平成19年10月1日発行

吉川先生は「ブリリアント」の産みの親

施設長 内田秀司

 15年前、吉川武彦先生のご指導のもとに開設したブリリアントです。当時、私の経営しているウズラ農場に、精神病院からリハビリのため院外作業としていろんな方が働きに来られました。皆、しっかりしていてまじめに働いてくれて感心したものです。話しを聞いて見ると「退院したいけど、家には受け入れてもらえず、かといってアパートにも入れないし...」ということでした。職親研究会で吉川先生にポンと背中を押されたこともあって「よっしゃ! それじゃ作ってやろうじゃないか」と思い切って建てたのがこのグループホームブリリアントです。まだグループホームというものの存在があまりない頃でした。

 見よう見まねでやってきた15年ですが、その間いろんな支援者の方達が支えてくださって本当にありがたく思っています。それから地域の方々も暖かく見守ってくださったおかげと深く感謝しております。これからも皆が障碍の有る無しに関わらず平等に楽しく暮らせる生活を目標にがんばって行きたいと思います。皆様今後ともどうぞ、暖かいご支援をよろしくお願い申し上げます。

「先生は責任をとって下さい」 
   ーブリリアント15周年をこころから祝ってー

ブリリアント応援団 吉川 武彦(中部学院大学大学院人間福祉学研究科)

1。「梁山泊」という言葉があるが

 まだ昭和だった1988年8月に私は国立精神・神経センター精神保健研究所岡上和雄先生の後任として精神保健計画部長として着任した。精神障碍者のリハビリテーションを終生のテーマとしてきた私が部長就任と同時に計画したのが精神障碍者の就労支援をして下さる職親の方々にお集まりいただいて研究会を開くことだった。

 その頃、全国職親会ができていたとはいえまだはせ参じていたのは6県、まだまだ職親会そのものの行方もはっきりしないときだった。井手利彦会長とは職親会をもり立てるにはどうしたらいいかを話し合ったが、国立精神・神経センター精神保健研究所が音頭をとって職親研究会を立ち上げることにした。研究所には宿泊施設もついていることから合宿で研究会を開くことにして、県単位でできている職親会のメンバーはもとより、個人的なルートをたどって職親になって下さっている企業の方に声を掛け、また全国の精神保健福祉センターにもお声を掛けるなどして40人ほどの研究会を1989年3月に開くことができた。

 それから毎年、3月に全国職親研究会として研究所が主催する形で集まりをもつようになった。愛知県の職親会はまだ結成されていないがと言いながら、豊橋の職親の方々は熱心に参加して下さった。その豊橋グループのお一人として第2回目か第3回目の会に内田秀司さんが来て下さった。会議の席ではおとなしい彼が活躍したのは夜の部であった。広間の会議が終わると研究所の職員が手分けして買ってきたつまみとビール、あちこちからもらい集めたウイスキーやワイン、それにケイタリングした料理がこれでもかこれでもかと並び、2回目は70人から80人の参加、3回目以降は100人を越す方が集まる研究会になり、夜の部に参加する方も4、50人という大宴会になるのが常だった。

2。言葉のはずみで、でもそれが

 そこでは日中の議論とは異なり職親制度を自由に語るばかりでなく、これからの精神障碍者のリハビリテーションという夢を夜を徹して語る「梁山泊」そのものであった。そのなかで異彩を放ったのが内田○○さんだった。アルコールが入ると日中とはまるで違い、饒舌になられた。トレードマークの頭を磨きみがき語るさまは周囲を圧倒した。

 このまさに「梁山泊」のようなひとときになかで、日中の議論の流れを踏まえて、精神障碍者の方々がせっかく退院しても仕事がないばかりか住むところもないと言う話になった。真面目な話になったので、その席で私は「精神障碍者のリハビリテーションにとって必要なのは『い・しょく・じゅう』です」と話を始めた。

 この『い・しょく・じゅう』には4つあると続け「衣・食・住」はもとより「居・職・従」があるし「慰・飾・什」もあり「医・色・自由(じゆう)」もあると説明して、ミニチュア講演会のようになった。そのミニチュア講演会を遮ったのが内田さんである。「難しいことはわからんけど、住むところがない人もいるってことですか」といった。私は「その通りです」と受けたその瞬間、彼が頭を振りふり「住む場所をつくればいいじゃない」と言うのであった。私はまた「その通りです」と言うしかない。すると「私がつくればいいんでしょ。やりましょう。つくりましょう」って言うので、回りはちょっと呆気にとられたが、ワンタイミング遅れて「カンパーイ」が始まった。内田さんはちょっと照れた顔をしたが、みんなと一緒に「カンパーイ」と叫び、話しは即実現に向けて夢の語り合いになった。翌日「いやあ、夕べは飲み過ぎちゃって」といつもの寡言な彼に戻ってはいたし、昨夜の「カンパーイ」などはけろりと忘れているような顔つきだったので、お別れするときはさりげなくご挨拶をしただけだった。

3。先生は責任をとって下さい

 でも、それから1年たって再び職親研究会の日になったとき、内田さんはまだ名前を決めてはいないが「グループホーム」をつくる構想を私に話して下さった。それが実現したのが15年前の秋の日のことである。奥さまも巻き込んでつくった「グループホーム・ブリリアント」の完成とお披露目をする日となった。夫唱婦随の仲のよいご夫婦である。

 内田さんは酔っぱらうと必ず「責任は先生にあります。先生は責任をとって下さい」という。そのとき彼は「私は、酒を飲んでいて。そう言わされちゃったんですから、グループホームをつくるなんて」という。酒を飲ませたのは吉川だから、飲ませた責任があるし、勢いで「住むところをつくればいいんなら、おれがつくる」と言ったというのだ。それを言われると、私は小さくなってしまう。なぜなら、内心ではそんなこと言ったって、まったく採算性のない事業を内田さんともあろう企業マンがやるはずはないと考えてもいたからである。その反面、もしも本当につくってもらえるものならこれほど嬉しいことはないと言う期待感ももっていたことを知っているから。

 でも、本当に建物ができてお披露目をするときに私のところにかかってきた電話は「先生、責任があるんですから、来て下さい。そして、スピーチをしてください。いえ、ちゃんと講演をして下さい。先生には責任があるんですから」という内容であった。いや、そのド迫力には感嘆した。さすがは世界に冠たる東海有機の責任者と感服してしまった。

 お披露目の日は晴天ではなかったがみなのこころは一点の雲もない明るいものだった。講演はともかく、奥さまのフラメンコダンスも拝見できたしその指導者の方々の賛助出演もあった。ご近所の方々もたくさん見えておられたし、お手伝いもして下さっていた。地域に根ざしたグループホームが誕生したと言う密かな感慨が私のこころに広がった。

4。あれから15年がたったという

 グループホームから指呼の間にある自宅を離れ、内田さんご夫婦はこのホームに住み込まれた。まだ国にも制度ができていなかったときにつくったグループホームだけに、県からもあれこれ指摘されたようであるが、制度のないものだけにかなり自由が利く運営であったと私は思っていた。ただしその運営にはかなりの資金が必要なはずだった。

 そうするうちに精神保健法改正によってグループホームを法定化することになり、それはそれで資金的なものも多少は国や県から出るようにはなったものの、反面、規制もかなりきつくなったはずである。そのような愚痴は一切私には述べることなく、内田さんご夫妻は寮生(彼らはそう呼んでいる)とともに生活をし続けている。

 せっかくお菓子を作っていたブリリアントの作業所(カサデルーセ)も、行政からのクレームもあって辞めるしかなかったとき、奥さまからもなんどか「何とかならないか」とご連絡をいただいた。関係機関にも連絡をして事情を説明してもらったりもしたが、奥さまの方が決断をして事業を撤退されるということにもなったことがあった。

 毎年のように開かれるブリリアント祭りには、私も時間の許す限り出席させていただいてきた。参加するとき内田さんが紹介して下さる同級生がたくさんおられることには驚嘆する。この方々がブリリアントを見守り支援して下さっているのだと実感できる。ただ、内田さんの回りに集まる同級生のほとんどが女性であることもまたびっくりさせられる。

 「レッツ・ブリリアント」というニュースレターが発行されるようになってからは、時折、寄稿させてもらってきた。このニュースレターには、グループホームの日常がさりげない筆致でメンバー、つまり寮生の方々が書いている。そうかと思うと、かなりがっちりした論文とも言える時評やエッセイが続けて載ることもある。

5。ブリリアント永遠なれ、とはいわない

 人は「継続は力なり」というが、力をもとうとして続けているわけではないブリリアントは、まさに“いつの間にか”15年たったと言えるかも知れない。しかしながらこの15年間、私が知らないところではどれほどのことがあったろうか。それを考えると、よくぞ15年も続けこられたなと密かに思う。

 私自身が精神障碍者のリハビリテーションに関わり始めて、もう、40年を越えた。1960年のあの「安保」を闘い、その戦いに敗れて精神科医になってからの40年は、精神障碍者の地域生活支援の道を拓こうとしてきた40年でもあった。多くの方々の先進的な試みに学びながら、それを制度にまで昇華しようとしてきた。

 ブリリアントはその先進的な試みのひとつであり、私にとっては学ばせていただくものが多かった。それは単にグループホームのあり方と言うことではなく、ブリリアント設立の経過やその運営、地域とのつながりや人による支えの重要さなどを学ばせていただいたし、それをどれだけ行政が感じ取れるかと言うこともまた考えさせられてきた。

 精神障碍者の自立生活支援がこれまでにもまして重要な課題になっていることはもちろんであろう。しかしながら、精神障碍者が自立できればいいと言うものではないこともまた確かなことである。3障碍共通の施策を求めてできた障害者自立支援法ではあるが、障碍者の自立支援が唱われること事態が社会の未熟さを示しているとも言える。

 それだけに、私は「ブリリアント、永遠なれ」という言葉でこの小論を締めくくるわけにはいかない。激しい言葉を使えば「ブリリアントが潰れる日」を待っているとも言えるからである。誰もが安心して生活できるときがくることを願うのが本当であって、その日がくればブリリアントはいらなくなるからである。その日まで私は生きてはいないが。

(サツマイモの大好き、焼き芋大好き人間より)

訪問交換グループ 「ブリリアント」

監督 杉本龍夫

 訪問交換グループ「ブリリアント」のおいたちを書いてみます。2002(H14)5月にブリリアント創立10周年記念祭が豊橋市民文化会館で行われました。その際、内田施設長が高校の同級生に出席の案内状を出しました。その案内状が僕の家にきましたが、都合により出席出来ず、寄付金のみにしました。その後退職し、殆ど毎日、好きな釣で過ごしたがそれも飽きてきた。そもそも趣味の釣は、ウィークデイに構想を練り、仕掛け作り等の準備をして、ウィークエンドに行くのがいいんであって、毎日行けるとかえって負荷を感じるようになったのです。

 その頃、親父の退職後の生活を思い出しました。親父は在職中と退職後も老人施設等でボランティアで音楽を教えていました。ボランティアで豊橋市から「愛市憲章」を貰った位です。僕も高校1年の時から音楽(ギター)を始め、1997年までバンドを組んでました。でもこれまでは自分の為の音楽でした。そこでこれからは人の為に音楽をやろうと決心しました。同時にパソコンを利用したメディア(写真、音楽、ビデオDVD)を習得し、人の為に利用しようと考えたのです。パソコンの技術は「メール」と「エクセル」が出来る程度でしたので早速勉強を始めました。音楽はバンドのメンバーがいないのでパソコンで作ることを考えました。実は1992年頃、MS-DOSですが、パソコンで音楽を作った経験はありましたが、WINDOWSではありませんでしたので、そのソフト(YAMAHA XGWorks)の内容は全く違うものでして、これには相当の時間がかかりました。

 パソコンの勉強をしながら、今度はどんな形で人の為に音楽をやろうかと考え、ボランティアをやる事にしました。そこで思い出したのは前述したブリリアントでした。早速、ブリリアントを訪ね、奥さんにブリリアントの内容の概略を聞き、後日、施設長ともお会いし、詳しい内容をお聞きしました。見せて頂いた10周年記念祭のビデオのなかで、将来の夢は寮生と「慰問」に行く事と語ってられましたのが印象的で、これだ!! と思いました。慰問を受ける側の人達と慰問に行く、これは素晴らしいと思いました。

 早速、慰問の構想を考えました。寮生の歌と、ほかの演芸を加え、バラエティを増す内容にする為、支援者の演芸を加えることにしました。ハーモニカ演奏のS氏・ホウロウ看板収集家のS氏・シャンソン趣味のM氏・ボランティア趣味のH氏に参加賛同を相談し、快く引き受けて頂きました。

ブリリアントの和太鼓

太鼓指導者 菅谷君男

 ブリリアントの皆さんが太鼓を始めて・・3年近くになりますか?最初は、大丈夫かな?と不安もあったのですが、寮生の方たちに太鼓を叩かせてみて、先ず驚いたのはその才能です。たまたまではあると思うのですが、音楽的センス抜群な方たちが集まっていたのです。「・・優れた人達が精神障碍という病気のせいで、世に埋もれてしまってはもったいない!」。太鼓指導者として彼らと関わるうち、そんな自分の思いが間違いではないと確信し、逆に自分の方が励まされて行ったのです。

 しの笛を使った「太鼓ばやし」に続き、雨乞いの「龍神太鼓」。覚えの早さに、ビックリの連続でした。慰問活動に太鼓演奏をするようになってからは、私も時々慰問に同行し、笛や地打ちの太鼓を担当させてもらっています。知的障碍者施設・老人デイサービス施設等に行きました。最も印象深かったのは、天竜市にある重度身障者施設での体験でした。ほとんど、一生を寝たきりで過ごすであろうと思われる人たち。音のする方を見ることも叶わない彼らに、果たして、笛や太鼓やスターダストの歌声が聞こえているのかどうか?かれらの眼差しに、反応のひとつも見受けられないと感じたからです。それでも、懸命に歌うブリリアントのメンバーや世話人さん・・とてもとても、気高いものを感じました。帰り際、当施設の介護の方や家族の方から「とても、喜んでいました」と聞かされ、「ちゃんと伝わっているんだ!」と驚くと共に、改めて大きなショックを受けたのです。喜んでもらえるかどうかではなく・・兎に角、他人のために一生懸命やる・・それが大事だと気付いた瞬間でした。いろんな所でいろんな体験をさせてもらって、良い勉強になっているのは、誰よりも「私自身」だと自覚しています。

 それからもうひとつは、慰問活動を影で支える裏方さんの存在が大きいですね。音響機器の提供やプロデュースの杉本監督さんやホーロー看板の佐溝さん等、とても恵まれています。そんな中、道具などの運搬を担っていた平井さんを失ったことは本当に残念です。彼らのようにはいきませんが、私も、慰問活動のお手伝いは今後も続けたいと思っています。

 また、別口の話ではありますが、1年ほど前から豊橋豊障会館(さくらピア)で歌・太鼓の練習を始め、この7月に障碍者太鼓クラブ「希望(のぞみ)」を発足しました。どんな障碍を持って悩んでいようが、趣味を楽しみ活躍する権利は誰にも在るはず、希望を持って生きて欲しい!・・そのような願いを込め、活動をスタートさせました。現在メンバーは8名。「ブリリアントに追いつけ!」を合言葉に、日々、練習に励んでいます。 そして、11月のブリリアント祭りには何とか共演が出来るよう、腕を上げて欲しいと思っているのですが・・。

 さて、グループホームブリリアントも開設15周年を迎えるとのことですね。開設当初より、本当に多くの困難を乗り越えて今日に至っているのだと察せられます。企業を後ろ盾としたユニークなグループホームであるということで、外部からの批判などもあるようですが、特殊であるという利点を活かして、これからも益々頑張って頂きたい・・と、願っています。

「救いはいつかの歌の中にある」

豊川ホーロー看板展示館館長 佐溝 力

1) 悩みの果てには何があるのか、そして今日も、
  時は流れ, 今浮かぶは懐かしい人達よ
  救いはいつかの歌の中にある
2) 人は流れ流れ流れて 空はどこまでも碧く高い
  今浮かぶは懐かしい人達よ 
  救いはいつかの歌の中にある
3) 明日を夢見て何を思う 小さな望みを
  子供に語る、今浮かぶは懐かしい人達よ
  救いはいつかの歌の中にある

  この詩をアメージンググレースの曲にのせて歌って見て下さい

ダイヤモンドの輝き

生涯学習1級インストラクター 位已光児

 私が太田睦美さんに誘われて、初めて「ブリリアント」のお話し会にお邪魔したのは昨年の6月でした。お世話人の内田里枝さんや寮長の鈴木光雄さんをはじめ寮生のみなさんに快く迎えていただきました。初対面とは思えないほどリラックスできました。だからお話し会での話も弾んで時の経つのも忘れるほどでした。そんな楽しさに誘われて、毎週木曜日のお話し会には、その後もしばしば参加させていただいています。そして、次第に分かったことですが、寮生は、このグループホームでただ暮らしているだけでなく、「スターダスト」というコーラスグループを結成して各地の施設で慰問演奏を続けていらっしゃるということです。その歌の話から岩倉市にお住まいのシャンソン歌手・森下昌洪さんとの交流が始まりました。 森下さんは、もう10年も前から「ブリリアント」とお付き合いがあるということを知りました。そして、その「ブリリアント」は今年で15周年を迎えるといいます。 なるほど、「ブリリアント」に通うほどに感じる重みは、その長い歴史なのだと思います。

 レッツ ブリリアントという機関紙も今年の7月で29号になるといいます。寮生の日常の生活の様子から奉仕活動の報告。広い地域からいろいろな方からのメッセージ。その内容は豊富で多彩です。そこには広い世界があります。好き嫌いや損得を超えて寮生活を送っているからでしょう。その広い「こころ」が15年という時の長さを更に延ばしているのだと思います。

 世間では殆ど毎日というほど様々な痛ましい事件が報道されています。まるで、それだけが世界の全てでもあるかのように騒いでいますが、その騒ぎにも乱されず悠々と「ブリリアント」は日々穏やかな生活を送っています。世間のどんな混乱にも巻き込まれず、社会の底辺にあっても、しっかりと確かな世界を支えている「ブリリアント」の活動は、まさに小さくても硬いダイヤモンドの輝きのように、長く広く世の闇を明るく照らし続けることでしょう。「ブリリアント」15周年に際して、そんな感慨を深くしております。

ブリリアント15周年おめでとうございます

元世話人 坂本頼子

 平成10年8月19日は私にとって運命の日です。鈴井さんの後を引き継いでブリリアントの寮に入居させてもらえた事。

 宮崎の高鍋から車で18時間掛かって(途中車の中で一泊)一人旅を楽しみました。内田夫妻をはじめ寮の皆さんにも温かく迎えて頂き、豊橋での生活が始まりました。

 忘れられないブリリアントの10周年記念コンサート

 平成14年5月5日の子供の日に豊橋市民会館での出来事。 内田施設長さんがビデオを作って下さったのでこれは私の一生の宝物。歌の上手な宇野兄弟にめぐり会わなかったら実現できなかったかもしれません。世話人さんの並々ならぬ思いを知った私は何とかして自分が経験して来た事が少しでもお役に立てればと思い、二人で力を合わせてやりましょうと言う事になりました。今にして思えばその事のために豊橋で生活するようになったと言っても言い過ぎではないと思います。

 寮生の一生懸命に練習する姿は今でも目に焼きついて離れません。 東海有機の会社の皆さんの応援や豊橋市の皆さんのおかげで素晴らしいコンサートを実現できて本当に感謝です。寮生は次々と入れ替わったけど毎年行われるブリリアント祭りは生きる楽しみでした。いろいろな出来事や悲しみを乗り越えて、今は楽しかった事の方が多く思い出されます。

 年に一度の一泊旅行、夏のあさり取り、ボート(マリンジェット)にも乗せて貰って又、 駒形神社の春と秋のお祭り、美味しかった甘酒や焼餅、次々と思い出されて懐かしいことばかり。そんなブリリアントが私は大好きなんです。

 宮崎の空より皆様のお幸せをお祈りいたします。

ある日のブリリアントの昼食の様子

ある日のブリリアントの昼食の様子

ブリリアント15周年に寄せて

世話人 内田里枝

 今振り返って見ますとアッという間の15年だったような気がします。心配していたグループホームの生活も、いざ始めてみると「何だ、とってもいい人達じゃないか。それよりも、ナイーブで繊細で、チョッと触ったらボロボロと崩れてしまうガラス細工のような人達なんだなぁ」というのが感想でした。私にはいっぺんに6人の息子が出来たような気がしました。(当時は寮生は男性ばかりでしたから)

 私はグループホームを明るいイメージにしたいと考えていました。もともと音楽好きでしたので、まずコーラスグループを結成しました。「スターダスト」という名前も寮生の一人が付けました。それからブリリアント祭りで発表するのが楽しみでした。ブリリアント祭りは今年で15回目です。毎年11月に行なっています。「地域の人達に精神障碍者を理解して欲しい」という思いで始めたのです。毎年、「スターダスト」のコーラスの発表や、私の趣味のフラメンコショーも今でもイベントの目玉として活躍しています。  ブリリアントの行事で意味深いものが、毎週木曜日、6時半から行なわれるお話会です。一人一人、心を裸にして語ります。いつも外部から一般の方や当事者の方も何人か参加してくださって盛り上がっています。「今夜はどなたがいらっしゃるかしら?」それが私の楽しみです。

 機関紙「レッツブリリアント」も今度で30号になります。年に4、5回発行しています。寮生の作文もアチコチにファンがおり読者からいろんな反応や感想が寄せられます。

 今、一番忙しくしているのは慰問活動です。主人の同級生の杉本先生が監督・指導をしてくださってもう3年になります。知的障碍者、身体障碍者、老人のデイサービスセンターなど、月2回くらいのペースで活動をしています。「スターダスト」のコーラスやソロに加え、和太鼓も取り入れました。小規模保護作業所「フレンドハウス」の所長の菅谷先生が指導して下さいました。あとは支援者として、豊橋精神障碍者地域家族会「くすのき会」の元会長の清水さんがすばらしいハーモニカで会場のお客様の心を癒してくれます。私の趣味のシャンソンも時々歌わさせていただいています。

 楽しみと言えば、年1回の一泊旅行です。茶臼山のコテージに泊まり、バーベキューやキャンプファイヤーをしたり思い出がいっぱいあります。今年は朝霧高原に行こうかと考えています。

 春は土筆や山菜採り、夏は海で貝拾い、春と秋の年2回の駒形神社のお祭りには清掃参加、そして餅投げもしっかりと拾います。ゴミゼロ運動にも加えていただき地域の人達にも可愛がられています。寮生も散歩に行くと顔なじみができ、散歩仲間がいろいろ声を掛けて下さるそうです。

 そんなこんなで過ぎた15年です。今日も又私は考えます。「何か面白い事ないかなぁ....」「何かお祭りないかなぁ.....」「あ、そうだ。今月は○○さんの誕生日がある。ご馳走は何を作ろう?何やって遊ぼう」これが私なんです。

花と私

鈴木光雄(寮生63歳)

 立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花、と聞けば絶世の美人を想い浮かべるのだけど、今日は花について、思いついたことを書いてみます。

 私は草花には多少知識がありますが、芍薬だの牡丹と言った豪華な花など育てた経験はまったくありません。私はアルコール依存症として6度も入退院を繰り返した人間です。2度目の入院をしたI病院から院外作業としてY花壇店に約一年勤め、花に水をやる事から、球根の植え方まで1通り覚えたのですが、退院すればまた酒に手を出すと言った具合で、バカにつける薬はないと、昔の人はよく言ったものです。

 こんな私ですが、今ではブリリアントの入口にある階段に並 べられたプランターに花を植え、水を切らさないように面倒を見ています。これまで一番嬉しかったのは、1年間水をやり春に花を咲かせたシンピジュウムです。花をつけていないのに水をやり続けることの空しさがいっぺんに消し飛んで、喜びが身の内から溢れ、一瞬ヤッターと思う気持ちは何とも言い難いものがあります。今年はシクラメンが咲きました。これからも花にも命が有るのだと、もっと真剣に草花の面倒を見ていきたいと思います。花が自然に咲いた様に私も生きていきたいと思います。今年ブリリアントの寮生全員で初めて水田を作りました。赤米の花の咲くのを楽しみにしています。

 今では見られなくなった麦の花を皆さんは見たことが有りますか?。私は半農半漁の生家なので小学生の頃、よく見ていました。白いとても小さな花です。たった30分しか咲いていないので、見る機会がなかなか無く、この花を見た人は幸運な人だそうです。また、サツマイモの花とか、60年に一度咲くサボテンの花など、私はアルコール依存でありながらこれら数百種の花を見る事が出来ました。「花の命は短くて悲しきことの多かりき。」

 本当に短い命ですが一瞬一瞬を懸命に生きる姿に人々は喜び、またため息をし、この世に花は無くてはならない存在だと思います。しかし私は58歳まで酒を飲み続け、桜の色が何色なのかさへ本当に心から見たことは有りませんでした。4年間断酒した今やっと心の視野が広がった思いです。アルコール依存症の人の平均寿命は52歳だそうなので私は10年も長生きをしたことになります。

 人間は皆何か目的を持って生きないとだめになってしまうそうです。私の病は、回復はあっても完治はないと言われています。アルコール依存症になったことが今では良かったと思います。過去の事を振り返り反省をしてこれからは人間改革をし、少しでも今までやってきたことの償いが出来たならばと断酒活動を行っています。 

入所して早6年が過ぎて

宇野和男 (寮生42歳)

 私は自分自身の人間的な心の礎を子供の頃から作ってくるのに失敗して他人と上手く渡り歩く事が全くできないで19歳まで生きてきました。その代わり自分に関係のある社会で絶対正義を100%いち早く見つけ出し、それに答えられる周りの人を見出しまず人のレベルを見定め、その上で尊敬し依存して家来のような身の振りをしていました。

 この間違った考え方に気づいたのは東京の都立短大に合格しすべての事を自分一人でささえなければならなくなった事が決定的でした。そしてこの間違った考え(精神病)を回復させる事に絶望して自殺未遂をしました。その後名古屋工業大学に合格してから卒業するまではとても明るく楽しく、そして良き大学生を体験できましたけど、社会人になってまた人間性の問題が再燃して2週間不眠不休で絶食もして仕事をやり遂げようとしましたけど、ストレスの限界が来てしまい、発病退社となってしまいました。

 それから約10年あっちこっちの病院をたらいまわしにされ、最初の症状はもう治っていたのに単独退院は不許可でした。そんな時双子の兄貴が平成13年1月からブリリアントに入居し「お前も来い」といろんな手続きをやってくれて、又可知病院のPSWの方に障害年金や手帳申請、扶助料の手続きなどの公的手続きもしていただきました。更にブリリアントの世話人さんからも直筆で「お兄さんとビリーバンバンになって下さい。」との手紙を頂きまして皆に背中を押されるように平成13年3月に退院し入居させていただきました。

 ブリリアントの皆はみんな友達感覚でつきあえましたし、全員個室で、6畳ありとても安らいだオーラに満ち満ちていて「ああ・・・退院できて本とに良かったと。」思いました。心が安息すると、次々のトラウマや自信喪失など、本格的に心の愛情治療が自然発生的におきてきました。作業所に行く時間だけど「心がそれどころではない」と言う現象となりました。そのたびに世話人さんは答えが出るまで魂の叫びをきかせてくれましたし、I先生のカウンセリング治療も受けました。

 そうして今6年経った今 こんなに素晴らしいところはないと心から思います。6年経ったら、落ち着いたんなら 次は仕事の問題が待ち受けています。皆さん健康人の方はわからないかと思い ますが入院が10年にもなると、僕の場合とくに青春時代に大活躍をして、現場の厳 しさを嫌でも体験させられていると、もう大量の薬を飲まなければならない現実の前で一般の日の目を見るような社会復帰など出きる訳ないと思っています。でもブリリアントも NPO法人となり寮生をきちんと働かせるようなプランを準備して下さるそうなので頑張りたいと思います。

ブリリアントに来て2年が経って

伊藤 剛 (寮生45歳)

 私がブリリアントに入居したのは平成17年の4月でしたので、この8月でまる2年と4ヶ月が過ぎた事になります。その間、理事長さん、世話人さん、寮生のみなさんの暖かい心に包まれ、とても心安らかに過ごす事ができました。ブリリアントに入って一番良かったのは、自分以外にも、心の病を抱えているたくさんの人達と知り合いになれた事です。5名の寮生のみなさんを始め、入居してすぐに通い始めた作業所、ワークショップエフのみなさんや、豊川の「メンタルネットとよかわ」のみなさん、それに、毎週木曜日のお話会に来てくださる一般のお客様たち、などなど。とても多くの人たちとつながりができました。それまでは、たったひとりで病気と向き合う生活でしたが、ブリリアントに来て、上述したようないろいろな組織の仲間たちと交流を深める事ができ、自分だけが苦しいのではないんだということを学びました。

 一人一人、症状は違いますが、同じ苦しみや辛さを抱えている仲間が身近にいるんだという気付きは、とても大きく、勇気づけられるものでした。また、一般の方々の中にも、心の病に理解のある人が大勢いることを知って、この点からも勇気づけられました。これからも、障碍者同士の横のつながりを大切にして、暮らしやすい環境づくりに少しでも役立って行きたいと思います。

4年間で変った事

匿名希望

 私がブリリアントに入って今年で4年になります。この4年間にいろいろなことを教えて貰いました。入居当初まだ10代だった私は社会の事や寮生皆との調和をとる事がもの凄く下手であまりなじめませんでした。そのため常識もなければ躾も知らない全く手も付けられないほどの頑固娘でした。気がついたら自分ひとりだけが浮いてしまい、とても恥ずかしい想いを体験しました。それからは一生懸命に今の心を入れ替えようと、努力し続けています。

 でも、そこに至るまでには様々な苦労がありました。 精神的に安定して無くて、悩みも多かったため、一つ注意されると“カッ”と頭に来ていましたがそれもだんだん直して行き考え方もマイナスからプラス思考に変って行きました。そうしたら気持ちがすごく楽になって行き今までの事がくだらない事だと思えるようになってきました。笑顔も最初の頃は作り笑いしかする事が出来なくて楽しいなと思った事はありませんでした。だけどこの2年くらいから本当の笑顔になってきました。やっぱり明るい心でいないとどんな事も無理だなと思いました。

 今の私は笑い方も大切にしています。こうして振りかえって見ると少しずつでは有りますが自分でも「地に足がついてきた」と思えるようになりました。これからは、自立、結婚と将来の夢に向かい真剣に日々を送って行きたいと思います。

入寮から現在まで

竹内艶子 (寮生63歳)

 私はブリリアントに入居して平成19年の8月2日で丸2年になります。 生活の中で楽しいクリスマス会そして誕生日会施設の慰問活動またブリリアント祭りがあります。私は家庭の主婦で暮らしてきて今になって共同生活をするとは思いませんでした。初めは体もえらいと思いました。今では1日1日が生活で、張り合いがあると思って暮らしています。

 生活の中では、犬の散歩と花壇の水撒き、食事の手伝い、3週間交代制の廊下掃除、6週間交代のウサギ、ウコッケイの餌やりなどして生きています。生活がリズムに乗ってする事が出来るようになりました。平成18年には2ヶ月ほど調子を崩して再入院しました。もう2度とごめんです。そのためにも自分自身の努力が必要だと思います。

 2人の息子とも離れて暮らしていますのでいつかは会いたいと思って頑張っています。ブリリアントも開所15周年になるそうです。これからも私の心の欠点を見つめて直してこれからも明るく暮らして行きたいと思います。

社会復帰と人間性の向上

藤田一夫 (寮生58歳)

 私がブリリアントに来て平成19年の12月12日で入居丸5年になります。ブリリアントが出来て三分の一を過ごしています。5年前の入居当初は寮生も男ばかりで喧嘩もたびたび起きていました。

 翌年の1月に19歳のブリリアント初となる女性の寮生、匿名希望さんが入居してからは男ばかりのむさくるしい雰囲気がだんだん変わって行きました。まだ当時私もぼんやりしてましたが、それに対して暴言をまき散らかしていた寮生も徐々に丸くなってきました。

 私も世話人さんに道徳的人間形成高度な人格をもつように常に教育されてきました。言って見れば年齢相応の人格の重みを持てと言う事でした。はじめ小規模作業所フレンドハウスに通いましたがチャンス到来で豆腐製造の朝倉商店に勤め出すようになりました。

 日々厳しい仕事を複雑な人間関係の中で過ごす事により世話人さんの教育が分かってきました。

 精神障碍者には最低賃金以下でも働かせる事が出来ます。精神障碍からの回復者でも社会復帰のためにがんばっている人もいます、私もその一人です。そういう人には賃金差別をせず能力に応じた賃金が支給されるべきだと思います。

 世話人さんはいつも間違った事は言わないので努力しても意見を聞きたいと思います。そして少しでも人格向上に惜しみなく努力し続けて行きたいと思います。人がいいと人になめられがちで 防衛的に怒り返した事が無い私のような人は一般的に言ってばかにされやすいところが有ります。 ばかにするほうが人格が低いと思います。この事を周りの人に訴えて行きたいと思います。

 大きい意味でいうと戦争のない人間作りが必要な時が必ず来ると確信しています。その時のために常に人生勉強をして行きたいと思います。

福祉秋祭り  「第15回 ブリリアント祭り」

日 時 : 平成19年11月11日(日)
場 所 :  ㈱東海起業内広場 (県道2号線大崎街道沿い)
       豊橋市大山町字西大山六番地 TEL 0532-45-3271

主 催 :  NPO法人 グループホーム 「ブリリアント」

                     TEL 0532-46-0033

テーマ :  「地域と会社とグループホームの 楽しみながらのふれあい 」

内 容 :   11:00  和太鼓演奏   (寮生)
        11:10  スターダスト合唱+独唱(寮生)
        11:40  ハーモニカ独奏 (清水伸太郎)
        12:00  和太鼓合奏:希望(のぞみ)+(寮生)
        12:15  合唱:希望(のぞみ)
        12:30  式 典
        12:40  ロックバンド (有志) 
        13:00  シャンソン独唱 (森下昌洪、田中操)
        13:30  カラオケ    (飛び入り参加)
        14:00  フラメンコ舞踊 (スタジオ アジュンの皆さん)
        14:30  ㈱東海起業・㈱東海有機の皆さんによる出し物

模擬店 :  ウズラの焼き鳥(ブリリアントオリジナル)、こんにゃく卵(みそおでん)、スコッチエッグ、串フライ、とりから揚げ、ウズラカレー、ブリリアントうどん、五平餅、ウズラ卵ドーナッツ、ウズラプリン、ウズラロールケーキ、レアチーズケーキ、本場中国の肉まん

バザー : ウズラ卵、汐かぜ卵、味付け卵、フリーマーケット

ゲーム大会: ウズラの卵割り競争、ウズラ卵のつかみ取り、などなど

会場への案内
バス :  豊橋駅前バス乗り場 1番乗り場より中野町経由の13デンソー前・
     14トピー工業前・15大崎・17豊橋ハートセンター行きの4路線に乗り、
     大山町バス停にて下車徒歩10分。
自家用車:  豊橋駅方面より国道259号線-愛知大学前の富本町信号を
      右折後県道2号線大崎街道を直進し、ヤマナカ、南郵便局、
      駒形町信号を通り越し、大山町信号を過ぎて国道23号線
      バイパスの高架をくぐったらすぐ左側。現地では係員が駐車場
      までご案内いたします。梅田川沿いにも駐車スペースがあります。

ブリリアント祭り会場の地図

ブリリアント祭り会場の地図

○ このチラシのくじ引き券で素敵な商品が当たります。切り取ってお持ちください。カラくじ無し!

○ カラオケ大会に出場希望の方はカセットテープかMDと歌詞カードをご持参下さい。

○ ご家庭での不用品を寄付してくださる方はご連絡下さい。いただきにまいります。

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