レッツ ブリリアント 2007/04 第28号

発行者
精神障碍者社会復帰施設
特定非営利活動法人(NPO法人)ブリリアント 施設長 内田 秀司

住所 〒 441-8145 豊橋市駒形町字坂口56番地
TEL 0532-46-0033
FAX 0532-46-0163

URL http://brilliant-gh.sakura.ne.jp/

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平成19年4月1日発行

ブリリアントはリトルワールド

施設長 内田秀司

 ブリリアントは今とても平和です。一つの小さな社会を築いていると言ってもいいくらいです。就職している二人以外の寮生は、朝六時半に起床し、七時に朝食を食べ、七時二十分には出勤です。私の経営する高塚農場へウズラの集卵の仕事に行ってくれています。一時間ぐらいで集卵は終わりブリリアントに帰ってくると九時過ぎです。すぐお茶を飲みながらの反省会があり、今日の仕事の良し悪しを振り返ります。悪い点は改善し、良い点は明日につなげます。そのあとの時間は自由であり、畑仕事をする者、ペットの世話をする者、パソコンでブリリアント新聞の原稿打ちをする者、音響機器の手入れをする者、料理を作る者、さまざまです。しかし、一人として役割の無い人はいません。誰もがブリリアントにとって必要な存在であり、その寮生達によってこのブリリアントは成り立っているのです。

 夕食の後には一日の反省会があります。今日一日の良かった点、悪かった点を反省します。そして、それは皆に話を聞いてもらう事によるストレス発散の場でもあります。そのあと、ラジオ体操や笑いの体操があり、慰問の日が近い時は歌や太鼓の練習があり、一日のメニューが終了します。また、毎週木曜日の夕食後には、外部の方も交えてのお話し会があり、そこで一週間分のアカを落とします。それから月に一度はブリリアント会議を行い、自分の走っている道がわき道に逸れていないかどうか反省し合っています。そんな平和なリトルワールドのブリリアントです。見学したい方はいつでもお越し下さい。ペットの猫のシロちゃんが玄関でお出迎えしてくれますよ。

電子レンジ大嫌い人間

森下昌洪(一般:岩倉市 50代)

 最近我が家の電子レンジが故障した。僕は、以前から電子レンジの有害説を知っている。壊れたのを機会にレンジが消えればいいと思ったが、女房はレンジ大好き人間なので、すぐ買って来た。故障する前は、ヒューズがよくとんだ。大電流が一気に流れた為だ。この調子だから食物の細胞は破壊されるはずだ。めし屋のおばさんは、注文した鯖のミソ煮を許可を受けずすぐレンジの中へほうり込む。確かにこの寒さでは、冷え切ったのよりあつあつのミソ煮はうまいに決まっている。冷えたマーボー豆腐も食べたくはない。

 めし屋のおばさんには、電磁波の恐怖とか食物の細胞破壊の話しは関係ない。この文明の利器を利用したい人と、火をおこして手間ヒマかけてじっくりと鍋で煮込んで食べたい人と二通りに分かれる。僕は後者を選ぶ。

 もう長い間テーブルの真正面で、僕は食事している。悪玉である電磁波は時によって僕の脳細胞を正常にして来たかもしれない。決定的な被害はでていない。 今後は、もっと強烈な電磁波を使った機器が出現するだろうから、電磁波に負けない体力作りと、免疫力を高めなければ生きて行けない。一流の調理人には、レンジで暖めたサバのミソ煮と鍋で暖めたのとの比較は簡単な事だ。一般人は何でも一緒に感じる。新しいレンジには、どんな料理もお菓子も出来るようにタイマーに絵が描かれている。これから家事をする若い主婦たちは、レンジが無いと料理は出来ないと錯覚するだろう。

 文明の利器が電磁波の影響が無いと云う証明はない。僕が喜んで使う為には、雨で濡れた猫をレンジで乾かして、生きていたら使ってもいい。これだけ科学が発達しているのだからこの位出来てもおかしくない。

 今度のレンジは前のよりやたらに大きくて非常に目障りだ。

梅見句会

平成19年2月17日 於向山緑地公園

梅見して みんなでおにぎり おいしいな              内田秀司

梅の花 風に吹かれて チラチラと                 竹内艶子

ポツポツと あたり一面 咲きほこり 鳥も止まって 一休み     匿名希望

梅の花 美しいけど 花粉症                    宇野和男

ウラウラと ねこも梅見で ひなたぼこ               内田里枝

ただ一人 我ただ一人 巣の神の よさしをおびて 世ぞ救うなる   藤田一夫

私のお気に入りのバイク

匿名希望

 私がバイクの免許を取ったのが、今から2年ぐらい前の事です。バイクといっても50ccの原付ですが、すごく私にとっては大事な宝物となっています。それまでは自転車でどこかお出かけをしたりしていましたが、だんだん、しんどくなってきて、やっぱり原付ぐらいは欲しいなと、思っていました。バイクに乗って、一番変わった事は、自転車とは違い足を使ってこがなくても済むということと、色んな場所へツーリングに行けるようになった事です。

 私は、今、ツーリングをする事が楽しみになっています。休日で晴れている日は、ほとんど、ツーリングに行ってストレスを発散しているので、夕方ぐらいまでは、バイクに乗りっぱなしです。気候がいい時には石巻山まで走りに行くこともあります。私にとってバイクは、体の一部になっているのでどこへ行くにもバイクだけは絶対にかかせません。そのおかげで最近、自転車に乗れなくなり、たまに乗って出かけようとすると、怖くて「大丈夫かな」と心配になります。

 今の時期はとても風がつめたくて、手はかじかみ、顔も寒さでつめたくて、どうする事もできませんが、それでもやっぱり、どんなに暑くてもどんなに寒くても、ツーリングだけはやめられません。これからどんどん気候もよくなり、もっともっと、ツーリングをしたいなと考えています。近場もいいのですが、やっぱり走りながら色んな景色を楽しんだり、おいしい空気をすったりするのもいいかなと思います。まるで、私にとっては貴重な存在ですが、すごく大切な存在でもあります。これからも、私の自慢のバイクを大事にしていきたいです。そして、事故だけには、くれぐれも気をつけて、安全運転で走行したいなと思います。

 念願だったバイクの免許が取れて良かったです。いつかは車の免許も取りたいですが、それには日頃の生活が大切なので、これからもこの調子で明るく、笑顔のたえない、そして前向きな生活をしていけたらいいなと思っています。

心の病を体験して

伊藤 剛(寮生44歳)

 私は、躁鬱病をこの24年間患っていまして、最初に発病したのは二十歳の時です。ご存知の方も多いかと思われますが、躁鬱病と言うのは気持ちがすごく高揚し、活動も活発になる躁状態と、気持ちが沈うつし、気力が萎えてしまう、鬱状態を交互に繰り返す病気です。私の場合は、どちらかというと躁の状態が強く、鬱に落ち込む時はほとんどありません。躁状態になると、アイデアがどんどん湧いてきて、会話も活動も盛んになり、自分は世界でも有数の人物だと言うような自信過剰に陥ります。友達に電話をかけまくったり、見たもの全部欲しくなって買い物をしまくったりして、それがエスカレートすると、だんだん睡眠をとらなくても平気になり、しまいには数日間一睡もしないで活動したりするようになります。そんな時の活動は、他人から見ると支離滅裂で、自分の頭の中でも、妄想が湧いています。と同時に、感情の起伏が激しくなり、怒りっぽくなったり、感傷的になったりします。

 躁状態が始まるきっかけは、失恋とか友人と喧嘩したりしたなどの精神的ショックや、仕事などでのストレスの蓄積、睡眠不足などがあります。こうした躁状態が一週間、長くて数ヶ月間続いた最後には、記憶を失い、人に話しかけられても対応できなくなってしまい、精神病院に強制的に入院させられてしまいます。これまで、5回ほど入院の経験があります。5回も入院しているとだんだん病気のことがわかってきて、いい意味で病気とつきあえるようになってきたわけですが、最初の入院の時には本当にショックでした。

 当時僕は24歳で、新潟県の大学の大学院で勉強していました。1月に横浜の友人の家に遊びに行った時に発病し、現地の警察に保護され、横浜の警察署まで父と兄が迎えに来てくれました。新幹線に乗せられて豊橋まで帰り着き、そこから実家までは、車の中で大きな声で歌を歌いまくっていました。その時は、車のルームライトがマイクであるような妄想に陥っていて、そのライトに向かって歌を歌っていたのです。実家に着いてその晩は風呂に入って眠ったのですが、翌日からまた状態が悪くなり、ささいなことで怒って素手でコップを割って、いまでもその時の傷が手の甲に残っています。その日、父と兄は私を名古屋市にある精神病院に連れて行きました。行く時の車の中でもやっぱり大声で歌を歌っていました。待合室でしばらく待たされたあと、診察を受けると急に看護士の人が私の両脇を抱えてエレベーターに乗せられ、病棟に連れて行きました。そして注射をうたれて、目覚めると四角い小さな部屋の中でした。後から知ったのですが、そこは保護室と呼ばれる部屋で、暴れたりする患者さんを一時的に保護するために入れておくのだそうです。僕は何で自分がこんな部屋に入れられるのかがわからず、大声を出して、部屋の鋼鉄製のドアや木の柱を蹴りまくり、全力で抵抗しました。しかし、もちろんドアを壊すことも出来ず、だれも来てくれず、2週間ぐらいそこで暮らしました。ようやく大部屋で暮らせるようになったのですが、そこもひどい状態でした。患者さんたちはみんなすることが無くてテレビのある食堂にたむろしているのですが、タバコの煙が青くもうもうと立ち込めていて、非常に空気が悪いのです。タバコを吸う患者さんたちの指は、タバコの脂で茶色に染まっていました。

 精神病院の閉鎖病棟は、鍵が支配している世界でして、どの部屋に行くのも鍵がかけてあり、看護士さんたちはいつも非常にたくさんの鍵を携帯してジャラジャラ鳴らしていました。最初の入院時には、不思議とかならず一月に一回調子がおかしくなり、1月に入院して夏ごろまで毎月一回保護室に収容される状態が続いていました。保護室には木の柱が10本あり、その外側が回廊になっていて、時折先生や看護士さんが巡回に回っていました。僕はその太くて固い柱を手で一本一本数えながら、大好きだった魚釣りで訪れた川の名前や、高校時代の同級生の名前を数え上げては時間を過ごしていました。保護室に入っている間考えたのは、自分がどうしたらここから出られるかだけでした。結論、死んだら出られるということに至り、次はどうしたらこの条件下で死ねるかをいろいろと考えました。毛布と枕があるだけなので、首をくくるには材料がありません。硬い壁に頭をぶつけるのも非常に痛そうです。そこで、三度の食事の時だけ差し入れられる食器の箸を利用して、これで両目を深く突けば間違いなく死ねるだろうということを思いつきました。けれども幸い実行には至らず、なんとかこうして今まで生き延びることができました。

 保護室の中での楽しい思い出は、紙飛行機を作ったことです。保護室には何も持ち込むことが禁じられていたのですが、看護士の目を盗んで紙を2、3枚持ち込みました。その紙で夜中に紙飛行機を作り、看護士さんに頼んで木の柱の向こう側の窓を開けてもらい、看護士さんが居なくなってからそっと紙飛行機を飛ばしました。紙飛行機は音も無く夜の闇に吸い込まれていきました。なにか本当に心の底からほっとする感覚を味わいました。

 面白かったのは、閉鎖病棟の中でも保護室に入れられるのは相当重症の人達だけだったので、僕が保護室から出てくると、他の患者さんが何か怖いものでも見るような面持ちで僕に接していたことです。毎月毎月保護室に入っているので、その病棟ではちょっとした顔役でした。一番悲しかったのは、閉鎖病棟の図書室で、ある有名な精神科医の先生が書いた本があり、その巻頭に、「日本の精神患者は二つの意味で不幸である。一つは精神病に罹ったこと、もうひとつは日本で精神病に罹ったことである」という意味の文章が載っていたことです。いまから20年前の日本の精神医療は諸外国と比べてすごく遅れていたと思います。

 最初の入院は、13ヶ月に及び、退院したのは翌年の2月でした。退院できたらどんなにうれしいかとそれまでは思っていましたが、薬が効いていたのか、案外あっけなく退院の日の朝を迎えました。その時の薬は、現在飲んでいる薬と思うと格段に副作用が強くて、気分が安定する引き換えに、非常にだるく一日中眠たいということがありました。

 僕は現在のように、躁状態でない時は、ほとんど一般の人と変わらない状態で生活もでき、仕事も出来るのですが、状態が悪くなると、本当に手がつけられなくなってしまいます。現在は、精神安定剤を日に朝と晩、2回、寝る前に睡眠薬を飲んでいます。おかげさまで、状態もこの3年ほどは安定し、ブリリアントでの共同生活、理事長さんの経営するウズラ農場でのパート作業に従事することができています。

 この躁鬱病で何が一番厄介かと言うと、躁状態の初期段階では、症状を自覚することができず、普段よりも心身ともに快調に思えるため、薬を増やしたり、病院に行って診察を受けたりすることが自分ではできないことです。そのため、ブリリアントのように、お世話人さんが、四六時中共同生活をしてくれて、日常生活の様子から病気の症状までをきめ細かに見守っていてくれる施設は、本当にありがたいと思います。ブリリアントに入居できたのは本当に幸運でした。

 私が、現在、病気を再発しないために行っているのは、食事、仕事、睡眠といった生活のリズムを毎日きちんと保つということと、服薬を忘れないようにするということです。同時に、なんらかの精神的ショックを受けたりストレスがたまった時には、薬を昼にも飲んで増量し、睡眠不足に陥らないように気をつけています。

 私がこの病気を体験して思ったのは、精神病と言うのはだれにでもかかる可能性があるということです。特にうつ病などは、現代のようにストレスの多い社会で生きている人達にとっては、ほんとうに身近な病気になっていると言えます。また、病気になった人達に、ただ薬を出すだけの治療ではなく、心の深い部分においてのケア、どうして病気になったのかをやさしく落ち着いて理解させてあげるようなケアが求められていると思います。また、出来るだけ患者さんの話をよく聞いてあげるような機会が必要だと思います。

 最後に、私は、健常者のみなさんが、精神の病気についてもっと理解を深めていただき、ブリリアントのようなグループホームがたくさん地域に出来るようになったらいいなと願っています。

H・T君との再会

宇野和男(寮生42歳)

 私は平成13年3月にブリリアントに入居いたしましたが、その4日ほど前にほぼ同時期に入居された、H.Tさんのことについて少し書いてみようと思います。

 平成13年12月2日に自分から病院への再入院を一人で決めて、ブリリアントから出て行ってしまわれたのですが、短いながらもインパクトのあるその生き様に今頃懐かしさを感じ、最近割とその病院の近くを自転車で通過していて「ああ、彼はまだこのなかにいるんだ。」「何か僕ばかり幸せになって心苦しいなぁ」「あれから6年かぁ」と思っていたこともあったりして、ついに、突然この間その病院の彼に面会と言う形で会ってきました。

 インターネットでレッツブリリアント 第2号か第4号に彼は登場します。 確か「マリンボーイ」と言う記事があったと思います。私が幼い頃から父親の影響でオーディオに取り付かれたようにH.T君も父親の影響を受け、1級の小型船舶とレーダーの資格を持っていて、静岡大学教育学部に在学時もヨット部に所属していて、3年生の時東海地区大会で優勝したそうです。そんな彼は筋肉リュウリュウで、私も彼とはけんかをしたことが有ります。

 病院で受付をし、10分くらい待っていると看護士につれられて彼はやってきました。「和男さんじゃないですか!」と感激されてしまいました。「近況はどうだ?」とか「将来のめどは?」などいくつかの点で退院を勧め、「もう一回やりなおそうよ」と約束して別れました。

 6年前は、ほぼ同じスタート地点に居たのに、その後の彼は病院とその付属施設としてのグループホームを行ったり来たりでの生活でさぞ苦労をされたのではないかと思います。私は彼に何とかして早く幸せで落ち着いて暮らして欲しいのです。彼が一刻も早くそうなるように願いつつ、私に何が出来るのだろうかとも思いますが、何かしら力になってあげたいと思いました。

テレビ買いました

藤田一夫(寮生57歳)

 平成18年9月にソニーの32型液晶デジタルテレビBRAVIAを買いました。32型の迫力とソニー独自の美画質によりもっと鮮明に映り以前持っていたテレビよりきれいに見ることが出来るようになりました。それだけでなく私は通勤に自転車を使っており、雨に降られると片道20分間濡れていなくてはならなくなりそこで便利なのは地元豊橋の24時間の天気予報・週間予報・全国の予報も見ることが出来大変役立っています。また、ニュース、株式その他色々な機能が付いています。そして11月にナショナルパナソニックDVDレコーダーDIGAも買いました。ブラビアとディーガをつなぐことにより私にとって最強のテレビ操作が出来るようになりました。例えば、ディーガはハードディスク内蔵であるので30時間録画が可能で有り、同時に裏番組も録れます。ディーガの美画質エンジンによりハードディスクに予約録画しておけばきれいな画面で何回でも見るだけでなく、録った番組もディスク(DVD-RAM)に残すことも出来ます。私はこのことを利用して、功名が辻を始めから最終回までDVDディスクに残し、永久保存することが出来ました。これも宇野君が取り扱い説明書とサトウ電気さんで調べて取り扱いをマスターしてそれを私に教えてもらって出来たことです。年末のレコード大賞や紅白歌合戦などの長時間番組もディーガのハードディスクにおさめてあります。消去することも出来ます。さらにハードディスクに予約録画した番組を編集することも教わり覚えました。私が覚えた機能も一部にすぎず、便利な機能がまだまだ有ります。私にとって初めての事ばかりですが、サトウ電気さんが言うには簡単になって来た方だと言っていました。しかし、私の勤務している会社では日曜日一日しか休みがなく、私もやることが有るのでテレビばかり見ているわけにはいかないです。

サミゾチカラの独り言

世話人 内田里枝

  「サミゾチカラの独り言」これは佐溝力さんの出版記念コンサートの題名です。佐溝さんはブリリアントの支援者です。そしてホーロー看板で有名で今やテレビ、雑誌、新聞などで大活躍です。このたび「三河の広告」という本を出版され、その記念に展示会やコンサートが行われたので寮生たちと見に行ってきました。

 SPACE叢というこじんまりしたお店には所狭しと「三河の引き札」という広告が展示され、その片隅でコンサートは始まりました。赤いストライプのシャツに赤の蝶ネクタイ、紺のスーツに山高帽といういでたちで佐溝さんは登場しました。「ブリリアント」の慰問にもホーロー看板の講演で参加してくださっているのですが、その時はキサクなシャツスタイルなのだけれど、今日はスーツ姿でバッチリ決まっていました。

 詩の朗読「骨のうたう」は、戦争の時、戦地で死んでいった若者が母親にあてて綴った悲しい詩です。戦争がむごいものだとひしひしと感じさせます。バックで流れるバイオリンの音色がいっそうもの悲しさを強調しているかのようでした。歌は「天然の美」「月の砂漠」「ふるさと」などをバイオリンやギターの伴奏で歌い、「憲兵伍長の唄」は彼の十八番です。戦後の日本の空気が流れ憲兵伍長の生き様をもの悲しく唄ったものです。

 去年ブリリアントの一泊旅行で茶臼山に行った時もキャンプファイヤーでこの歌を唄ってくださいました。佐溝さんの生き様=憲兵伍長とも言えるような気がします。「救いはいつかの歌の中にある」という歌は佐溝さんご自身の作詞によるものでした。最後の「よいとまけの歌」は胸にジーンと迫るものがあり、涙が出そうになりました。

 私はこのコンサートを聴いて、なんてゼイタクな一時間だったんだろうと思いました。どこに行ってもこんなコンサートはありません。昭和初期にタイムスリップしたような感覚。体の奥からにじみ出るようなやさしさともの悲しさ、やり場のない怒りや魂の叫び、そんなものが佐溝さんの体中からあふれていました。詩の朗読の一言、一言、歌の歌詞の一つ一つに私たちに訴える何かがあったような気がします。

 佐溝さんは人を見るときにうわべではなくその奥を見つめます。ボランティア歴40年の実績によるものです。佐溝さんは天皇陛下から緑綬褒章も頂いています。そんなすばらしい人がブリリアントを支えてくれているのです。慰問活動の時のアドバイスや忠告は佐溝さんの心のやさしさ、それは言い換えれば寮生に対する愛情から出たものだと思い、いつもありがたく聞かせてもらっています。佐溝さん、これからもブリリアントにご支援、ご指導をよろしくお願いいたします。

私の近況

竹内艶子(寮生62歳)

 私は朝六時に起きなければいけないと思っても布団が恋しくて六時四十分に起きてしまいます。私には可愛いジェニーという犬がいます。ジェニーは私が入院中に死んだミミという犬に顔やスタイルがよく似ています。私は毎朝ジェニーの散歩をしています。犬のいない生活が子供の頃からできなくてブリリアントには犬がいて幸せだと思います。ブリリアントには最近死んだパンダという猟犬がいました。パンダが死んで寮長さんのみっちゃんが五年間毎日散歩をしたと言ってパンダの話を泣いてしました。心のやさしいみっちゃんはお酒が好きですが、今年の十二月一日が来て満十年間お酒を飲んでいません。また、芋を採ってくれたり畑の仕事をして野菜を作ってくれたりします。私はみっちゃんを心の中で尊敬をしています。

 世話人さん、理事長さん、また寮生のやさしい人たちに囲まれて私は生活をしています。これが私の幸せなんだと思って暮らしています。五心の一つである「いつもにこにこ明るい心」をいつも胸に思って、暗くならないで何をするのも楽しいと思って毎日生活をしています。私は今ブリリアントに入って良かったと思っています。今の気持ちを忘れないで暮らして行きたいと思います。

行事報告 平成19年1月~3月

1月14日(水)初詣(そぶみ観音)
  14日(水)誕生日パーティー、新春カルタ大会    
  21日(日)駒形神社清掃    
  28日(日)当事者会(くすのき会主催)《さくらピア》    
  28日(日)ブリリアント会議    
  31日(水)「ブリリアント」慰問(気の里)

2月 2日(金)避難訓練    
    2日(金)てんつくマン・位己さん体験発表会(豊橋文化会館)
    3日(土)節分豆まき、太巻き寿司体験実習    
   17日(土)梅見・句会(向山公園)    
   21日(水)ヘルパー研修会(寮生講演)《あいトピア》    
   28日(水)「ブリリアント」慰問(和 なごみ)

3月 3日(土)佐溝さん出版記念コンサート(SPACE叢)     
    4日(日)ブリリアント会議
   24日(土)花見・バーベキュー(豊川フリースペース主催)    
   28日(水)「ブリリアント」慰問(豊橋ケアセンター)


* 毎週木曜日PM6:30よりお話会を行っています。一般の方の参加も自由ですぜひお越しください。TEL0532-46-0033までお申し込みください。 (参加費は無料です。)

ブリリアントにご協力いただいた方々

あいトピア様、稲地扶美子様、金原康純様、佐溝力様、清水伸太郎様、白井千雄様、菅谷君男様、杉本龍夫様、大須賀良子様、豊橋善意銀行様、レスポワール様、有機デリバリーサービス、東海起業(株)、東海有機(株)

ブリリアントにご寄付くださった方々

北川藤良様、新井興治様、加藤義光様、金原光昭様、小木曽哲夫様、大村英介様、山本美和子様、杉本龍夫様、マダム芳江様、小林芳徳様、朝倉商店様、白井千雄様、豊橋善意銀行様、平井宏様、レスポワール様、古関英勝様、伊藤洋様、気の里様、南陽中学校様、なごみ様、鵜飼正義様、上島智隆様、有機デリバリーサービス、東海起業(株)東海有機(株)

いろいろとご協力、ご支援ありがとうございました。

編集後記

 私が入寮したのと同じ年(平成13年1月)に、豊橋市の岩田運動公園で子猫として拾われた愛猫シロがこのところすごく甘えん坊になってきました。メッセージの伝え方も色々あって、寒いよ・お腹すいたよ・おしっこしたいよ・もう眠いよ・水が飲みたいよ、だけど冷たい水じゃなくてお湯も混ぜてぬるま湯にしてぇ・・・などとありましてシロも私がいないと辛いようです。ウズラの仕事から帰ってくると「うにゃうにゃ」と歓迎してくれます。今となっては私もすっかりシロの父親です。これからもひょっとかしたら前世で僕の子供だったかもしれないシロを生きてる限り溺愛しようと思うこの頃です。

寮生 宇野和男

 いよいよ四月となり、桜も咲き、一年のうちで一番良い季節になりました。ブリリアントでは、寮長の鈴木光雄さんが、春夏野菜の植え付けに一生懸命頑張ってくれています。寮生の竹内艶子さんは、毎朝、ジェニーの散歩をやってくれています。何気ない毎日の生活の中で、お二人の努力には本当に頭が下がります。これからもお元気でお過ごし下さい。

寮生 伊藤 剛
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