レッツ ブリリアント 2007/01 第27号

発行者
精神障碍者社会復帰施設
特定非営利活動法人(NPO法人)ブリリアント 施設長 内田 秀司

住所 〒 441-8145 豊橋市駒形町字坂口56番地
TEL 0532-46-0033
FAX 0532-46-0163

URL http://brilliant-gh.sakura.ne.jp/

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平成19年1月15日発行

明けましておめでとうございます。
     今年もどうぞよろしくお願いいたします。

施設長 内田秀司

 昨年一年を振り返ってみますと、ブリリアントにとって大きく変わった事は、NPO法人を立ち上げたことです。今までは家族会の運営のもとに行っていた活動も昨年3月より独立して一歩一歩、歩き始めました。そして7月より先に就職していた二人に習うべく、残り四人の寮生も社会の一員として働くことになりました。まだ労働時間は長くありませんが、しかし、「やった!」という達成感を味わいながら、少しずつ自信を取り戻しています。慰問活動も定着し、いろんな施設で喜んでいただいております。ソロの曲も各自持っており、自己アピールや曲の紹介も冗談を交えながらなごやかに話せるようになりました。

 12月の末に行われた「感謝の集い」では、司会進行係、音響係、お客様の接待係など寮生がそれぞれの役割を立派に果たすことができ、本当にびっくりしました。また、毎週行われているお話し会も、外部からのお客様を交えながら有意義なものとなっております。毎年恒例のブリリアント祭りも、昨年は場所が東海起業㈱に変わり、東海起業㈱、東海有機㈱の社員の方々の応援を得て内容の濃いものとなりました。

 このようにブリリアントは日々、進歩しております。今年も一歩ずつではありますが前向きに歩いて行きたいと思いますので、皆様の暖かいご支援、ご協力をどうぞよろしくお願い申し上げます。

平井さん、安らかに......

世話人 内田里枝

 ブリリアントは昨年11月に大きな大きな財産を失いました。それほど平井さん、あなたの存在は偉大でした。慰問の時はいつも音響機材の運搬、舞台装置という地味な仕事で活躍してくれましたね。決して目立つ所にはいませんでした。そんな縁の下の力持ち的役割の平井さんを見て、私は素晴らしい支援者だといつも感じていました。

 私生活でも事務用品販売会社の社長さんとして活躍され、その合間を縫ってシニアライオンズクラブのボランティアもされたり、さらには畑も作ってらっしゃいましたね。立派なキュウリやナスをかご一杯届けていただいたものです。とてもおいしかったです。また趣味ではソーシャルダンスもなさり元気一杯の平井さんでした。そんなあなたがどうしてこんなに早く天国に行ってしまわれたのですか?今でも信じられません。

 昨年8月のお電話で、「医者にあと3ヶ月と言われたので身辺整理をするため、慰問には行かれなくなった...」そう言われたのを今でもはっきり覚えています。私はあまりに驚きでただただ人事のように聞いていました。現実にそんなことが起きるなんて信じられなかったのです。

 9月にブリリアント一座の皆でお見舞いに行った時、「ブリリアント祭りの看板は作るでね」と静かにはっきりおっしゃいました。「まさか......そのお体で」私は内心あきらめていました。しかし平井さん、あなたは本当に作って下さったんですね。10月の中頃、バンを御自分で運転なさってブリリアントに届けて下さいました。大きな大きな看板でした。とても立派でした。「体がだるくてだるくてね...」そう言われたあなたの目はもう以前のような輝きが無く、もう立っているのがやっとのようでした。最後の力を振り絞って作って下さったんですね。

 それから一ヵ月後、ブリリアント祭りも無事終わり、ヤレヤレと思っていた頃です。朝、電話が入りました。「平井ですが、ゆうべ亡くなりました」奥様の声でした。「ウソ!だって1ヶ月前、ブリリアント祭りの看板を届けていただいたばかりじゃないの。早すぎるよう!どうして、どうしてあんなにいい人がこんなに早く亡くなっちゃうの......」私は覚悟はしていたもののこの現実を受け止めることが出来ず涙があとからあとからあふれて止まりませんでした。

 平井さん、あなたのご恩は決して忘れません。細かい気配り暖かいご協力、ブリリアントのメンバーは一生忘れないでしょう。そして、これからは平井さんの分まで慰問活動を皆で協力して頑張っていきます。平井さん、どうぞ天国で安らかにお過ごし下さい。そして空の上から私達を見守っていてください。お願いします。

大人へのステップ

匿名希望

 私がブリリアントに入寮して今年で4年目を迎えます。今ふと思うことはすごく自分自身が幼かったのが、やっとここまで来たかということそれに、笑顔もこの間にだいぶ変わリました。今まではまるで子供みたいな笑い方しか出来なくて心の底から喜ぶことは出来ませんでした。それほどいい人間になりたい皆から認めてもらいたいと言う思いでいました。これまではまるでおねだりを求めている子供と同じだと思いました。でもそれではいけないという思いから何とか変わりたいと言う気持ちでいました。人間は色んな壁にぶつかることで成長して行きまた勉強できるんだと感じました。そう思ったら、今まで自分でしてきた事が何だったのか、とても情けなくておかしい気持ちになります。

 私は“前向き”と言う言葉をモットーにしています。くじけそうな時、考えがマイナスになった時には、いつもこの言葉を思い出し、勇気をもらっています。今の自分がいるのも、よく考えてみるといい経験だったのかも知れません。子供じみた考えがあったからこそ、こうして一歩一歩成長がありその喜びがあるんだと思います。

 最近は本当の明るさを取り戻し心の底から喜ぶことができるようになりました。すごく気持ちも楽になりました。そう考えると、前の私は何だったのだろうと思うようになりとても自分自身が恥ずかしいです。でもやっぱり人間なので感情のよし悪しがあるけれどそこのところは臨機応変に対処していきたいです。

 私のこれからの目標はもっともっと前向きに進んでいき、更にパワーアップすること、内面もみがきいい大人になること、そしてその中には“笑顔”、“明るさ”を忘れず、周りの人達をいやしてあげる、そんなふうになりたいです。これからも色んな事にぶつかり、つまずくかもしれないけれど、全部私にとってのいい経験にしていきたいです。そして本当の意味でのいい大人の女性になれるように日頃の生活を頑張り、少しでも自分の夢に近づけるようにしていきたいです。

人間再生の施設 ブリリアントと私

宇野和男(寮生42歳)

 私は6年目の寮生で、宇野和男といいます。私の病気は症状で言いますと今は薬をきちんと飲めば全くの平気でいられますが、急性症状のときは24時間何か漠然とした恐怖感がありまして自分を地獄におとしめる闇の悪の組織が次から次へと実生活にかかわってきて私を単なる「死」ではなく効果的で最悪な「死」へいざない、私をあざ笑うようなことになるんじゃないかと感じ続けたことです。たとえば夜10時くらいにコンビニに入ったとき店員が口ひげ一杯で制服もよれよれの時なんかに、その人こそスパイだと強く感じました。

 ブリリアントに入居できたのは人生最大の幸運だったと思います。3年間ほど「社会的に対応できない」理由でk病院に入院しました。 病院でも院内作業とか働いていました。病院食の給食の洗い場で2月の水道水の冷たさが平気だったです。もうこれ以上の治療効果がないと判断され、ブリリアントの存在を知り、もう一度人生やり直そうと思い、ケースワーカーさんと話をしたところ、経済的な面でちよっと苦しいけど何とかやれるよと、障害年金や障害者手帳の申請などを面倒をかけしまして現在に至っております。 概略は以上なのですが一応どんな青春を送ったか少しお話しさせてください。

 母が3人目の人になってからは勉強一本で育ち小学校4年から中学3年まで 学習プリント「全家軒ポピー」を2枚、遊びに行く前にやり、それから、いわゆる戦争ごっことか野球をし、家に帰ってくると母が赤ペンで添削してくれたプリントを教科書、資料集を使って調べたりして再提出し・・・・と言う左脳活性化矯正をする中でだんだん頭が動き出し、中学2年の後半からは予習復習と絡めて自分で管理しました。

 高校は春日井市の進学校「愛知県立春日井高校」へ進みましたが、ここでは落ちこぼれてしまいました。それは中学では学習とは暗記することですが、高校では自分の論理的思考力を信じて定義、定理、性質を考て、具体的に計算して答えると言う違いがわかってなかったからです。

 そんな落ちこぼれでも滑りとめの短大には現役合格しまして、そんなことから高校卒業と同時に家族会議があって、この3月をもって私を家から追い出そうと言う動きがありました。その一つは、父がタクシーの運転手をしていて夜の街を主にサラリーマンの接待客を稼ぎとしていたところ、ある大学生が夜のコンパで友人同士の会話で「おれんところの親父なんか最低だ」とかいいながら仕送りだけ一ヶ月15万円も貰っていたりする大学生を見て「俺の息子には絶対こういうこと言わせない」と思った父の意地と、養子縁組もしてない、親父の再婚の連れ子は早く家から出て行ってもらい自分たちだけの結婚生活を送りたいという母の悲願もありました。両親それぞれ理由は違うが結局勉強しか能のなくさせられた私を何処でもいいから学校へ入れて仕送りせずに働かせれば良い。と言う共通の結果を推論してしまったのでした。簡単にまとめるとこうなります。

 男の子には大学卒しか認めない、しかし一切仕送りゼロ。こうして短大、浪人、大学の9年も朝日新聞の新聞奨学生をすることになりました。最終学歴は国立名古屋工業大学工学部電気情報工学科です。この9年間に学問に打ち込みながら稼いだお金は1000万円を超えます。資格としては工業高校の一種教諭免許も持っています。大学1年の時には女子短大の女の子たちと合同コンパもやって、私も友人におれの親なんか最低だ」と言って青春を過ごしました。2年生になり履修科目が難しくなるとそんな余裕も無くなり、またまた勉強一本になりました。でも大学の専門の学問は現代文化を支えるライフラインの電気、そしてオーディオ、パソコンなどの半導体知識への向学心がざわめき、大学まで進んで本当に良かったと心から思いました。私の心の専門は量子力学と半導体工学です。でも卒研ではまずコンピューターがわからなければと思い、計算機シミュレーションの研究室に入りました。

 そして就職は60万円の奨学金をくれたサン・ウェーブのステンレス鋼板の鋼板を100%作る親の製鉄会社で溶鉱炉をもつ、日新製鋼の設備部制御技術課へ就職しました。主に昭和50年より前の古い鉄鋼のメッキ薄板製造ラインの改造建設設計の現状調査と改造の設計を任されました。でも大学では全然そういう勉強してなくて、それが、きっかけとなって精神疾患になってしまいました。入社して1年8ヶ月くらいで発病しました。最後の2週間は眠れなかったです。そして自分がおかしなことになってることが、自覚できていました。さらに最後の3日間は断食、風呂も駄目、もうめちゃくちゃでした。そして今でももうプログラムは2度と見たくないと思っています。救急車で精神病院に連れて行かれ睡眠薬を注射された時、半分残っていた平常心が 「これですべて終わったよ」とつぶやきました。

 両親がそろって中卒で、自分も中途半端になりかけた頃、がけっぷちからすくってくれたのはやはり3人目の母です。怨みもありますが、感謝もしています。「能力と人間性」とよく言われます。私の場合人間性が全く育っていなかったのです。精神病院にも美しい女性はたくさんいました。皆どうやって親しくなるのか遠めで見ていて研究しました。単に遊びのテクニックじゃなく守れる人を作ることです。そんなことは30歳過ぎにいう事じゃないけどこれが私の人生の順番でした。精神病院で約9年過ごしましたが心の成長がはじめて命題になったのがこのときでした。

 毎日規則正しい生活をすること。喧嘩は程ほどに強いこと、女性に目を合わせて物を言うこと。病院はどこでも嫌なものです。精神だけじゃありません。ガン、心臓など命に直接かかわることの病院も雰囲気は違っても患者の病院嫌いが同じようなものです。

 私が36歳でブリリアントに入居させてもらうのには以上のような歴史と言うか人生を生き切った個性があったのです。

作業所での6年間

 ブリリアントの入居条件に働けて基本的な共同生活が出来ることとあり、その実体は、寮生を小規模作業所へ通わせると言うものでした。私が入居した平成13年の頃は皆朝8:00に起床し9:30に豊橋精神障碍者地域家族会くすのき会 フレンドハウスというところへ、通うようになっていて月の給料は¥4000~¥10000くらいだったです。フレンドハウスでの私はレベルが低いとはいえ病院で学んだ人間交流を実践し又恋愛もし、仕事としてはと左手で割り箸の紙袋を持ち右手で箸を入れるという簡単なことですが両立することができました。 ところがはじめは19歳の時の自殺未遂のため左手内側に神経がない私は箸1本に10分かかり、袋はくしゃくしゃになりなした。あまりの惨めさに所長のところへ行き、泣きながら「こんな私が生きていいいのでしょうか?」というところからの再スタートだったのです。

 フレンドハウスには2年くらい通いまして、もうここでは学ぶことがないと思い、くすのき会の会長に相談したところ、豊橋市の中で一番実社会に近いと言われる会長じきじきの運営にあたっている小規模作業所「ワークショップ・F」へ通うことになりました。ここではいわゆる立ち仕事、夏の冷房なし、主に手、指の訓練が中心となり作業時間も大幅に増えました。細かい手仕事をこれでもかこれでもかと作業していくだけの毎日でした。ここでも仕事が途中からわからなくなったり、失敗したり、喧嘩したりいろんなことが、ありました。この体験は自分にブラシをかけるような意味合いを持ちました。そしてここでも又もう新しく学ぶことが無いような感じがしていた時にブリリアントがNPO法人となり、寮生皆を実社会で働かせてみると言うこととなりブリリアントの施設長が社長をしている東海有機という鶉を生かした循環経営の会社で一番易しい鶉の卵集めを8月からさせてもらっています。

人間再生の施設ブリリアント

 以上のことのほかにブリリアントでは基本的な家庭生活としてトイレ、廊下、脱衣所、台所、食事室の電気掃除、モップ掃除、ペットの散歩、餌やり、が週間交代であることはもちろんのこと、コーラスグループスターダスト、大太鼓の練習活動があります。月に一度は必ず何処かの施設へ慰問と称し音響機器持込で懐メロやコーラスを行っています。その音響機器の解体組み立ては私が中心となってやります。

 慰問の帰りに配線接続を匿名希望さんがさりげなく手伝ってくれて嬉しく思います。又2、3ヶ月に一度機関紙「レッツ ブリリアント」の原稿書きがあります。この機関紙も全部手作りです。2時間ぶっ続けで閉じ仕事を行います。600部作ってます。2日に一度はブリリアントのホームページの掲示板を眺めます。たまに書き込みもします。

 レクとしては寮生に誕生日のある月に都合の良い日に誕生会をやります。豪華な食事、トランプゲーム、オイチョカブ、レーザーカラオケなど色々します。その後大きなデコレーションケーキを頂きます。この間は世話人さんの誕生日会のときは世話人さんと寮生が一曲づつデュエットしました。又年一回か二回の海か山への一泊旅行もあります。毎月の寮費支払いの時、¥1000ずつ積み立ててその枠内でやります。まるで修学旅行のようなのどかで豊かな感じがします。自分がもう精神疾患じゃないような気がします。バーベキューの時は火熾しなど施設長がやります。

 この様に基本的に①自分の公、私生活が出来、②単純労働でも毎日きちんと働き、③能動的文化的な活動をすること、④それにいくつかの行事の共同遂行、この4本柱がブリリアントの人間再生プログラムといえるのではないかと私は思います。

私の入院と旅だち

竹内艶子(寮生62歳)

 去年、私は再入院してしまいました。原因は二人の子供と3年間も会ってなく、とても辛かったのと、それがもとでブリリアントの生活がきちんとできなくなってしまったからでした。入院は2ヶ月で済みました。私はもうブリリアントには戻れないと思いました。でも奥さんと施設長さん、そして寮生の皆が私を救ってくれました。今の私は心が明るくてブリリアントの生活が楽しくて仕方がないです。今生きていられるのも私一人ではなく、皆いるんだと思って生活をしています。

 運悪く再入院がブリリアント祭りと重なり、出演できなかったです。でもクリスマス会には間に合いました。地下室でクリスマスの歌の合唱、自由カラオケ、美味しい奥さんの料理、そして照明を落としてのクリスマスケーキのロウソク消しがありとても幸せに思いました。又、31日にはリラックスルームでお菓子をつまみながら紅白歌合戦を見て本当に良く年を過ごさせてもらったと思います。

 私はこれまで家庭の主婦をずっとやってきたので何でも子供子供と思って暮らしてきたのでそれは辛いです。でもこれからは自分の人生をまずシッカリやって行こうと思います。今年は絶対再入院はしないと心に誓いました。犬の散歩をしたくて生活をリズム的な物に私なりにしています。 どんなことでも楽しいんだ、幸せなんだと思って暮らせば心が明るくなって一日一日を過ごせるんだと思いました。

 今はとりあえず病気が再発しないように他の寮生とはちょっと生活のメニューを少なめにさせていただいています。でも皆楽しく話しをしてくれます。そんな暖かい人生を過ごしていく中できっと又元気のいい私にもどれるんじゃないかと思います。これからもよろしくお願いします。

風邪で寝正月

伊藤 剛(寮生44歳)

 昨年の暮れに風邪を引き込んでしまって、正月は寝正月で過ごしました。布団に入るときに妙な寒気がしたのですが、明け方になって熱が出たらしく、夢の中でウンウンとうなされました。目が醒めると汗びっしょり。着替えてからどうしても寝付くことができず、半分うなされたまま朝になりました。とりあえず起きて、世話人の内田さんに今日の仕事を休むことを告げ、あらためて寝入りました。8時半に食事に起きたのですが、パンをトースターで焼いているうちに熱で頭がボウッとなり、椅子からずりコケました。なんとか食事をしてベッドに戻りましたが、それから1週間も寝込んでしまいました。いつもなら暮れから正月にかけては帰省するのですが、今年は風邪を持ち込んではいけないと思い、ブリリアントでおとなしく寝ていました。

 一年の計は元旦にありといいますが、一日中ベッドの中で横になっていたので、今年はあまり活動的な年にはならないのかなと思っています。でも、気を持ち直して、前向きに生活してゆきたいと思っています。

三谷温泉ドライブ(初詣)

藤田一夫(寮生56歳)

 年末は7日間続けて勤務し結果としては1月1日と2日が休みになりました。そして、1月1日に白井さんと朝10時30分出発で三谷温泉に出かける事になりました。三谷温泉の明山荘に行き、12時ちょうどに到着しました。普段の日は、2千円で昼食(バイキング)と温泉が食べ放題、入浴し放題でタオルと歯ブラシ付ですが、正月料金と言うことで2千5百円でした。私が元旦の日1日しか休みがないと思っていたので1日に出かけたのですが、他の店はどこも休み、喫茶店も休みでした。明山荘でのバイキングは、腹いっぱい食べ、そして入浴、お風呂は気分転換・ストレス発散にもなりちょうど良い温度の湯加減でした。昨年の10月の三谷祭りの日にも来ており、その時は2千円でした。気分も新たにしたのち、弘法大師をお参りして帰途につきました。途中、チェーン店の喫茶店コメダに入り少々休憩し、ブリリアントに5時に着きました。もともとは近くにうまいものと休まるものを求めてのドライブが目的で行ってきました。

パンダの思い出

鈴木光雄(寮長67歳)

 パンダがブリリアントに来たのは私が入寮して3ヶ月後の平成6年2月頃だった。それから毎朝、毎夕1時間ずつ散歩をして餌もあげた。以来5年間ぐらい散歩をしつづけた。朝は5時から1時間かかっていっしょに歩いた。真冬には寒いので朝5時半からにした。ブリリアントに帰り着く直前になると、霜が下りてきて、あたり一面が白くなると同時に私の肩も知らず知らずのうちにびっしょり濡れた。その霜から抜けると目の前がパァーッと開けてきた。

 その頃はまだ酒を飲んでいた時代だったので、散歩の途中でコンビニに寄り、私はビールを飲み、パンダにはパンを買ってやったのも良い思い出である。また、お宮さんの階段で、パンダとかくれんぼをしたこともあった。そういう生活も、私の右足が悪くなってからは散歩が出来なくなってしまったが、パンダの顔を見ると何かを訴えるような目で見返してきたのが印象的だった。

 こうしてパンダが死んでみると、もう一度パンダと二人で散歩がしたかったなぁと強く感じる。亡くなる1ヶ月ぐらい前からは、面倒を見てやることが出来て本当に良かったなぁと思う。パンダがまた生まれかわってきたらきっと自分の身近に来てくれるだろうと感じている。パンダは私の病を背負って身代わりになって死んでいったと思う。これからはパンダに負けないように、精一杯明るく生きて、自分の生きざまを人に見てもらいたいと思っている。

ジュリー物語(3)

世話人 内田里枝

三本足のジュリー

 二、三日見ないなと思っていたら、ジュリーがカッタンカッタンと怪我をして帰ってきました。良く見ると、怪我をした後ろ足がグローブのようにパーンと三倍くらいに腫れ上がっていました。しかしびっくりしているヒマもなく、またジュリーはいつものように出かけて行ってしまいました。それからまた二、三日後に帰ってきたら今度はあの腫れ上がっていた足がミイラのようになっているのです。これはおかしい、と、子供がジュリーの足をよくよく調べてみたら輪ゴムがはまっているではありませんか。どこかの子供のいたずらでしょうか、輪ゴムから先の足は干物のようです。急いで獣医さんに診てもらいました。「これは関節から下は切断しなければいかんね。腐りかけてる」と言われました。「えっ、ジュリーは三本足になっちゃうの?」私はビックリして涙が出そうになりました。ジュリーは入院し、足を切断することになりました。次の日、迎えに行くと、先生が言いました。「丈夫な猫ですね、怪我なんかほっておいたら治っちゃうでしょう?」「はい・・・」「普通の猫は麻酔を一本打てば効くのですがお宅の猫は一本では効かず、二本打ってやっと効いたのですが、すぐまたきれてしまいました。本当に丈夫な猫ですね」

 家につれて帰ったその日、ジュリーは一日中押入れの中にうずくまり「ウ~~」とうなっていました。しかし、二、三日経つとまた、足の傷も癒えないのに出かけていってしまいました。何か三本足でヒョッコラヒョッコラ歩くのが気の毒げなジュリーの後ろ姿でした。

親分陥落

 猫の社会も厳しいもの、ジュリーは縄張りの見回りに出て行かなくなり、私も安心して眠れるようになりました。別の親分が誕生したのでしょう。猫もかなり実力主義の社会のようです。しかし三本足になったといっても木にもあっと言う間に登るし、走るのだって信じられないくらい速く暴走族のようです。三本足のジュリーの存在はますます有名になり「あそこでジュリーを見たよ」「ここにジュリーがいたよ」自分の縄張りはなくなっても存在感はなくなりません。その頃ジュリーにそっくりのしっぽの曲がった黒い子猫をアチコチで見かけるようになりました。その子猫たちは、一時でも頂点に立ったジュリーの王朝時代の産物でしょう。この個性あふれるジュリーの武勇伝は私達の心にいつまでも残ることと思います。

行事報告 平成19年9月~12月

9月 9日(土)「ブリリアント」慰問(ちぎり寮)
  17日(日)誕生日パーティー    
  23・24日(土・日)一泊旅行(茶臼山高原、東栄温泉)    
  27日(水)「ブリリアント」慰問(なごみ)

10月18日(水)「ブリリアント」慰問(やしの実)
   20日(金)和太鼓の練習    
   21日(土)講演会(刈谷)    
   25日(水)和太鼓の練習    
   29日(日)「ハート・イン・東三河」(田原文化会館)

11月 4日(土)駒形神社清掃、秋祭り     
    5日(日)文化祭参加(シーサイド吉前)、駒形神社秋祭り
   10日(金)ブリリアント祭り準備(五平もち作り)
   11日(土)ブリリアント祭り(東海起業㈱内)、慰労会    
   17日(金)世話人さん見学会(ブリリアント)    
   19日(日)講演会とミニコンサート(牛久保公民館)    
   26日(日)ゴミゼロ運動参加

12月 1日(金)「善意の日」記念の集い(あいトピア)     
    2日(土)てんつくマン上映会参加(豊橋文化会館)     
    3日(日)駒形神社下草刈り    
   14日(木)お話し会(クリスマスパーティー)    
   23日(土)感謝の集い(クリスマスパーティー)    
   25日(月)クリスマスカラオケ大会    
   31日(日)除夜の鐘(リュウネン寺)

* 毎週木曜日PM6:30よりお話会を行っています。一般の方の参加も自由ですぜひお越しください。TEL 0532-46-0033までお申し込みください。 (参加費は無料です。)

ブリリアントにご協力いただいた方々

あいトピア様、稲地様、小野田様、金原様、佐溝様、清水様、白井様、菅谷様、杉本様、豊橋善意銀行様、平井様、田中様、森下様、山口様、レスポワール様、フラメンコスタジオアジュン様、有機デリバリーサービス、東海起業(株)、東海有機(株)

ブリリアントにご寄付くださった方々

内田様、加藤様、金原様、杉本様、鈴木様、マダム芳江様、小林様、朝倉商店様、藤岡様、西山様、桑原様、高洲様、杉原工務店、水谷様、ヤマコ包装産業㈱様、高田石油店様、白井様、豊橋善意銀行様、平井様、レスポワール様、坂本様、小野田様、ちぎり寮様、山根様、夏目様、柳瀬様、内藤様、溝口様、中西様、河合様、山本様、近藤様、太田様、小木曽様、古関様、佐溝様、大沢様、円山様、北川様、黒木様、横山皮膚科様、菅谷様、伊藤様、山口様、椰子の実様、有機デリバリーサービス、東海起業(株)東海有機(株)

いろいろとご協力、ご支援ありがとうございました。

編集後記

 愛犬パンダが亡くなりました。14歳、人の年齢で言うと75歳くらいのおばあさんです。この一年間は、畑の横の陽の当たる暖かい場所で隠居生活をしていました。なぜならば、ガンと心臓病と戦っていたのです。しかし、とうとう最後の力も燃え尽きてしまいました。パンダは寮生皆に見送られ、天国で安らかに眠りにつきました。パンダ、14年間私たちに幸せをくれてありがとう。

世話人 内田里枝

 去年の12月に訪問交歓グループ“ブリリアント”の音響機器の運搬、整備、看板つくり、など実行部隊の中心でご活躍していただいていました平井さんが亡くなられました。私はいつも音響機器管理の責務から平井さんが運転された車に40回以上一緒に乗って色々な話しなどしました。車の中での会話からはいつも、何も代償を求めず、ただひたすらに自分の存在を惜しみなく切り与えるような情熱をお持ちになって私達を盛り立てていてくださったのだなと思います。いつも尊敬していました。「平井さん、お疲れ様でした。そして有難うございました。」

寮生 宇野和男
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