レッツ ブリリアント 2013/10 第54号
発行者
精神障碍者社会復帰施設
特定非営利活動法人(NPO法人)ブリリアント 施設長 内田 貴士
住所 〒 441-8145 豊橋市駒形町字坂口56番地
TEL 0532-46-0033
FAX 0532-46-0163
URL http://brilliant-gh.sakura.ne.jp/
ブリリアント設立から20年
今から遡ること、平成元年に精神障碍者を初めて雇用しました。というのは、鶉の農場を作ったのですが、人手が足りなかったからです。平成3年に精神保健職親研究会が吉川先生のもとに行われました。その時先生は、グループホームの重要性を説かれました。東海有機でも是非そういったグループホームを作り、優秀な社員を育成したいと思いました。「血は通っていないけれども一つ屋根の下に住み、家族として同じ食事をし、喜びも悲しみも共に分かち合える理想の社会を作っていけたら」と思い、平成5年に「グループホームブリリアント」を設立いたしました。これが父の想いです。ブリリアントの原点です。早いものであれからもう20年が経ちました。私は施設長になってまだ日は浅いのですが、昨年亡くなった父の意志を継いで、未熟ながらも障碍者福祉に頑張りたいと思っております。これからも皆様のご支援・ご協力をどうぞよろしくお願いいたします。
グループホーム「ブリリアント」20周年記念
20年の歩みと、いま、そしてこれから ー 内田秀司さんの遺志は永遠のもの ー
1。はじめにー2、3の自己紹介、現職は大学の学長、そのひとつ前が大学院教授で科長
1)神奈川県人と新潟県人の両親をもったお陰ー腰は軽いがなんとか人の役に立ちたい
2)そのため勤務したところが同時にいたところを含めると20か所、住居も20か所
3)開き直って「転勤、転職、転居が趣味」といいー内田秀司さんとは国立の研究所で
2。コンピュータのなかにしっかりしまい込んであったものー「15周年」のときの寄稿
1)そこにはグループホーム「ブリリアント」ができたいきさつー読み返すと涙が出る
2)そこには書かなかったがお披露目のときー内緒ですがといい「これウズラの宿舎」
3)なぜなら天井から空気が抜けるようにしてあるのーウズラは熱に弱いから空気抜き
3。この紀行文の最後にー「サツマイモの大好き、焼き芋大好き人間より」とあるように
1)毎年のブリリアント祭りに顔を出していた頃ー「また、お芋の好きな先生が来た」
2)当時の利用者である寮生にも覚えて貰ったーなんと言ってもこのグループホームは
3)内田ご夫妻の「人脈」によって支えられてきたといえるーお祭りにも地域の方々が
4。設立から20年と言うときご主人の内田秀司さんを失うーがんとの壮絶な闘いをへて
1)その経過について奥さまの里枝さまからお便りをいただいたがーお会いは遠慮した
2)国にグループホーム制度もなかったー「住むところをつくろう」からできたホーム
3)だがお父上のご遺志を継いで息子さんが施設長に就任ーブリリアントは生き返った
5。15周年を祝う頃にできた「障害者自立支援法」も変わりー「障害者総合支援法」に
1)改正点は4点ーその1が「障害者基本法にはなかった『難病』を含めた総合対策」
2)その2は「障害点どの判断に『心身の状態』をーその3に「重度訪問介護制度化」
3)その4としては総合的な意味で「サービスの基盤整備」ー等が行われることになり
6。わが国の福祉制度の見直しが進んだがー精神障碍者の地域生活支援の充実とは離れて
1)まだまだ、かつて「精研」で熱く議論したー精神障碍者の就労支援への道は、遠い
2)内田さんは「住むところはつくる」ー豊橋の凄さは「働く場所は俺たちがつくる」
3)その動き、地殻変動にも似た動きをしっかりとらえきれなかったー国や地方行政で
7。おわりにーそれだからこそ「これから」を考えるときには「豊橋を見て欲しい」とも
1)精神障碍者のみならず障碍者全般、いえ「私たち」にはー「い・しょく・じゅう」
2)もちろん「衣・食・住」が大切だー「居・職・従」があるし「慰・飾・什」もあり
3)さらに「医・色・自由」もーその意味で精神障碍者福祉は遠い道のりかも知れない
グループホーム「ブリリアント」15周年記念寄稿
「先生は責任をとって下さい」 ー ブリリアント15周年をこころから祝って ー
(中部学院大学大学院人間福祉学研究科)
1。「梁山泊」という言葉があるが
まだ昭和だった1988年8月に私は国立精神・神経センター精神保健研究所岡上和雄先生の後任として精神保健計画部長として着任した。精神障碍者のリハビリテーションを終生のテーマとしてきた私が部長就任と同時に計画したのが精神障碍者の就労支援をして下さる職親の方々にお集まりいただいて研究会を開くことだった。
その頃、全国職親会ができていたとはいえまだはせ参じていたのは6県、まだまだ職親会そのものの行方もはっきりしないときだった。井手利彦会長とは職親会をもり立てるにはどうしたらいいかを話し合ったが、国立精神・神経センター精神保健研究所が音頭をとって職親研究会を立ち上げることにした。
研究所には宿泊施設もついていることから合宿で研究会を開くことにして、県単位でできている職親会のメンバーはもとより、個人的なルートをたどって職親になって下さっている企業の方に声を掛け、また全国の精神保健福祉センターにもお声を掛けるなどして40人ほどの研究会を1989年3月に開くことができた。
それから毎年、3月に全国職親研究会として研究所が主催する形で集まりをもつようになった。愛知県の職親会はまだ結成されていないがと言いながら、豊橋の職親の方々は熱心に参加して下さった。その豊橋グループのお一人として第2回目か第3回目の会に内田秀司さんが来て下さった。会議の席ではおとなしい彼が活躍したのは夜の部であった。
広間の会議が終わると研究所の職員が手分けして買ってきたつまみとビール、あちこちからもらい集めたウイスキーやワイン、それにケイタリングした料理がこれでもかこれでもかと並び、2回目は70人から80人の参加、3回目以降は100人を越す方が集まる研究会になり、夜の部に参加する方も4、50人という大宴会になるのが常だった。
2。言葉のはずみで、でもそれが
そこでは日中の議論とは異なり職親制度を自由に語るばかりでなく、これからの精神障碍者のリハビリテーションという夢を夜を徹して語る「梁山泊」そのものであった。そのなかで異彩を放ったのが内田秀司さんだった。アルコールが入ると日中とはまるで違い、饒舌になられた。トレードマークの頭を磨きみがき語るさまは周囲を圧倒した。
このまさに「梁山泊」のようなひとときのなかで、日中の議論の流れを踏まえて、精神障碍者の方々がせっかく退院しても仕事がないばかりか住むところもないと言う話になった。真面目な話になったので、その席で私は「精神障碍者のリハビリテーションにとって必要なのは『い・しょく・じゅう』です」と話を始めた。
この『い・しょく・じゅう』には4つあると続け「衣・食・住」はもとよりもあると説明して、ミニチュア講演会のようになった。そのミニチュア講演会を遮ったのが内田さんである。「難しいことはわからんけど、住むところがない人もいるってことですか」といった。
私は「その通りです」と受けたその瞬間、彼が頭を振りふり「住む場所をつくればいいじゃない」と言うのであった。私はまた「その通りです」と言うしかない。すると「私がつくればいいんでしょ。やりましょう。つくりましょう」って言うので、周りはちょっと呆気にとられたが、ワンタイミング遅れて「カンパーイ」が始まった。
内田さんはちっと照れた顔をしたが、みんなと一緒に「カンパーイ」と叫び、話しはその実現に向けて夢の語り合いになった。翌日「いやあ、夕べは飲み過ぎちゃって」といつもの寡言な彼に戻ってはいたし、昨夜の「カンパーイ」などはけろりと忘れているような顔つきだったので、お別れするときはさりげなくご挨拶をしただけだった。
3。先生は責任をとって下さい
でも、それから1年たって再び職親研究会の日になったとき、内田さんはまだ名前を決めてはいないが「グループホーム」をつくる構想を私に話して下さった。それが実現したのが15年前の秋の日のことである。奥さまも巻き込んでつくった「グループホーム・ブリリアント」の完成とお披露目をする日となった。夫唱婦随の仲のよいご夫婦である。
内田さんは酔っぱらうと必ず「責任は先生にあります。先生は責任をとって下さい」という。そのとき彼は「私は、酒を飲んでいて。そう言わされちゃったんですから、グループホームをつくるなんて」という。酒を飲ませたのは吉川だから、飲ませた責任があるし、勢いで「住むところをつくればいいんなら、おれがつくる」と言ったというのだ。
それを言われると、私は小さくなってしまう。なぜなら、内心ではそんなこと言ったって、まったく採算性のない事業を内田さんともあろう企業マンがやるはずはないと考えてもいたからである。その反面、もしも本当につくってもらえるものならこれほど嬉しいことはないと言う期待感ももっていたことを知っているから。
でも、本当に建物ができてお披露目をするときに私のところにかかってきた電話は「先生、責任があるんですから、来て下さい。そして、スピーチをしてください。いえ、ちゃんと講演をして下さい。先生には責任があるんですから」という内容であった。いや、そのド迫力には感嘆した。さすがは世界に冠たる東海有機の責任者と感服してしまった。
お披露目の日は晴天ではなかったがみなのこころは一点の雲もない明るいものだった。講演はともかく、奥さまのタップダンスも拝見できたしその指導者の方々の賛助出演もあった。ご近所の方々もたくさん見えておられたし、お手伝いもして下さっていた。地域に根ざしたグループホームが誕生したと言う密かな感慨が私のこころに広がった。
4。あれから15年がたったという
グループホームから指呼の間にある自宅を離れ、内田さんご夫婦はこのホームに住み込まれた。まだ国にも制度ができていなかったときにつくったグループホームだけに、県からもあれこれ指摘されたようであるが、制度のないものだけにかなり自由が利く運営であったと私は思っていた。ただしその運営にはかなりの資金が必要なはずだった。
そうするうちに精神保健法改正によってグループホームを法定化することになり、それはそれで資金的なものも多少は国や県から出るようにはなったものの、反面、規制もかなりきつくなったはずである。そのような愚痴は一切私には述べることなく、内田さんご夫妻は寮生(彼らはそう呼んでいる)とともに生活をし続けている。
せっかくお菓子を作っていたブリリアントも、行政からのクレームもあってやめるしかなかったとき、奥さまからもなんどか「何とかならないか」とご連絡をいただいた。関係機関にも連絡をして事情を説明してもらったりもしたが、奥さまの方が決断をして事業を撤退されると言うことにもなったことがあった。
毎年のように開かれるブリリアント祭りには、私も時間の許す限り出席させていただいてきた。参加するとき内田さんが紹介して下さる同級生がたくさんおられることには驚嘆する。この方々がブリリアントを見守り支援して下さっているのだと実感できる。ただ、内田さんの回りに集まる同級生のほとんどが女性であることもまたびっくりさせられる。 「レッツ・ブリリアント」というニュースレターが発行されるようになってからは、時折、寄稿させてもらってきた。このニュースレターには、グループホームの日常がさりげない筆致でメンバー、つまり寮生の方々が書いいる。そうかと思うと、かなりがっちりした論文とも言える時評やエッセイが続けて載ることもある。
5。ブリリアント永遠なれ、とはいわない
人は「継続は力なり」というが、力をもとうとして続けているわけではないブリリアントは、まさに“いつの間にか”15年たったと言えるかも知れない。しかしながらこの15年間、私が知らないところではどれほどのことがあったろうか。それを考えると、よくぞ15年も続けこられたなと密かに思う。
私自身が精神障碍者のリハビリテーションに関わり始めて、もう、40年を越えた。1960年のあの「安保」を闘い、その戦いに敗れて精神科医になってからの40年は、精神障碍者の地域生活支援の道を拓こうとしてきた40年でもあった。多くの方々の先進的な試みに学びながら、それを制度にまで昇華しようとしてきた。
ブリリアントはその先進的な試みのひとつであり、私にとっては学ばせていただくものが多かった。それは単にグループホームのあり方と言うことではなく、ブリリアント設立の経過やその運営、地域とのつながりや人による支えの重要さなどを学ばせていただいたし、それをどれだけ行政が感じ取れるかと言うこともまた考えさせられてきた。
精神障碍者の自立生活支援がこれまでにもまして重要な課題になっていることはもちろんであろう。しかしながら、精神障碍者が自立できればいいと言うものではないこともまた確かなことである。3障碍共通の施策を求めてできた障害者自立支援法ではあるが、障碍者の自立支援が唱われること事態が社会の未熟さを示しているとも言える。
それだけに、私は「ブリリアント、永遠なれ」という言葉でこの小論を締めくくるわけにはいかない。激しい言葉を使えば「ブリリアントが潰れる日」を待っているとも言えるからである。誰もが安心して生活できるときがくることを願うのが本当であって、その日がくればブリリアントはいらなくなるからである。その日まで私は生きてはいないが。
吉川武彦(きっかわ・たけひこ):精神科医。現在、長野市にある清泉女学院大学/学長・清泉女学院短期大学/学長です。また、国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所/名誉所長、中部学院大学/名誉教授でもあり、社会福祉法人江古田明和会/理事(前理事長)、東京国際音楽療法専門学院/学院長も務めています。内閣府「自殺に関する調査検討会」/座長、厚生労働省「脳死臓器移植検証会議」/委員や文部科学省「教職員のメンタルヘルスに関する検討会」/座長を務めてきました。最も力を注いでいるのが「脳トレ」、NPO法人こころとからだの介護予防協会/理事として脳トレ教室開催中です。
ブリリアント20周年にむけて
ブリリアントのお話し会に出席させていただいて、もう七年目になります。
その間色々な事がありました。精神障碍や発達障碍者の自立支援や指導などさせて戴くようになって随分と学びと経験になりました。
よく何々人格障碍とはどういう事かと聞かれますが、まず人格が障碍される、と言う事について考えて見たいと思います。最近では、精神分裂症が統合失調症と変わったように、人格障碍もパーソナリティ障碍に変わりましたが、パーソナリティの語源はペルソナ、ユングは役者が用いた仮面のことである言葉を人間の外的側面をペルソナと呼んだ。人格とはちょっと違いますが、其れを指すような言葉に、志しと言う言葉があるようです。あの人は志しを持った人だと形容されるようです。
志しもやはり、心を刺すと言うところからきているようです。ですから実際には心を不自由にする事のようです。ブリリアントでは色々な決まりが有りやはり不自由だと言う人もいます。しかし自立をするという事はしっかりと志しを持つ事だと思います。
話しは変わりますが、僕自身の話しになってしまって申し訳ありませんが高校は全寮制自立自営の学校へはいりましたから、働かざるもの食うべかざる。と言う言葉が掛かっていました。でもその時のお陰で働くと言う事が身に着きました。引きこもりの人たちの相談を親子さんから受ける事が良く有りますが、大学まで行かせたのに、働けないで困る。これらを解決するには?最後に僕の尊敬する医師の一人である鎌田實氏の文を引用してみたいと思います。
この国はいつから、人と人を繋ぐ絆を喪失し、安心してこどもを生む事も、年を取ることもできない冷たい無機質な国になったのだろうか。
「頑張らない」の著者である医師、鎌田實氏は、37年前に地域医療の道に入り、粘り強く地域住民たちとの信頼関係を築きあげながら、患者の心に寄り添う暖かな医療を実践してきた。それは、日本が推し進めてきた、最先端医療に特化した臓器を診る医療に真っ向から反旗を翻す行動でもあった。にもかかわらず、鎌田氏は、僕はこの国に失望はしていない。人は必ず変わることができる。社会にあたたかな血を通わせることができるはずだと語り続けている。この言葉にあるように、患者の心に寄り添うあたたかな医療を実践して行こうと思います。
ありがとうございました。
「ブリリアントとのかかわり」
僕が内田さん一家と、つながったのは、河合楽器でピアノの調律をしていたからだ。独立以後二十数年間、伺っている。
ブリリアント設立十周年記念が文化会館で開かれ、レッツブリリアントの表紙の絵と黄色のTシャツのデザインを担当した。レッツブリリアントへは、ずっと投稿している。
設立当時は、地下室でのフラメンコが印象に残る。僕は、十数年前から、シャンソンを駒形の公民館で唄っている。
故杉本龍夫さん達と一年間施設に慰問公演をさせてもらった。いい思い出だった。また、木曜のお話し会では、故鈴木光雄さんの、経験豊富なお話しが、勉強になった。
北海道のべてるの家のメンバーとも名古屋で会う事が出来た。
亡き内田社長のブリリアント設立の動機が面白かった。どんなキッカケだろうと、二十年もの間、ブリリアントを続けた、内田夫妻には、頭が下がる。名誉、金の為でなく、タンタンと何事もなく自然体で、やっている。
この意志は、息子さん夫婦につながり、永久にブリリアントが続く事を願っている。
お世話になります
平成13年5月に島病院に入院し、同年の9月頃ブリリアントに入寮しました。寮生活、仕事など自立のための共同生活を体験しました。一度家に帰って一人で生活をしていたのですが生活が乱れて、今年の7月にブリリアントにお世話になっています。
時代は変わる
季節が変わるように時代も必ず変わります。現代の華やかな科学文明には問題が多すぎます。論理的という理屈の上に成り立っているからです。理屈は限定しないと成り立ちません。だから、どんなに広大で精緻な論理でも結局は、始まりがあり終わりのある限定された範囲の世界でしかありません。その範囲が次第に狭くなってきています。そして行き詰るのです。
しかし、親鸞聖人は既にその打開の道を開いてくれています。宗教の流れの上からではなく自然そのものの本質を直接悟っているからです。世間は全くその事実を知ろうとしません。宗教という限定された立場からしか見ていないからです。
私は幸いに「こころ」そのものにはカタチがない事実を認めることができました。それが親鸞聖人の悟りと同じであることを知って確かな時代の変革が確信できたのです。論理的といい科学的といい、カタチにこだわった現代文明には必ず終わりがあります。始まりがあり終わりがないとカタチが成り立たないからです。そこで親鸞聖人は自然法爾章で「無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましませぬゆゑに、自然とは申すなり」と明確に示しています。自然の本質にはカタチがないのです。常に変化しているからです。だから自然をカタチで捉えることができません。
例えば心臓は常に動いて休むことがありません。なぜ疲れないのでしょうか?自然が支えているからです。その自然にはカタチがありません。また地球は太陽の周りを超スピードで回っています。しかし、46億年、一度も狂ったことはありません。自然が支えているからです。それほど確かな自然にはカタチがありません。この事実は理屈で理解できるものではありません。「こころ」にはカタチがない事実を素直に認めると、カタチがないので、どこにも境がなく全てに通じる智慧が働きます。そして、カタチがないので無条件に湧いてくる「よろこび」があります。それが花鳥風月や美しい景色として表れているのです。だから人間も同じように自然の働きで生まれ育っているわけですから、根底には無条件に湧いてくる「よろこび」があるのです。それを私が実証しています。
家族も親戚も先輩後輩もなく、もうやがて80才になると云うのに老後の生活を引き受けてくれる人は一人もいません。でも健康で孤独感もなく不安も迷いもないのです。自然の確かな支えがあるからです。それは「こころ」そのものにはカタチがない事実を認めたことで自分と自然との境がなくなっているからです。しかし、自然は私だけに働いているわけではありません。全てに平等に働いています。だからカタチの上での貧富の差はあっても無条件に湧いてくる「よろこび」は世界のどこにでも表れるのです。その事実に気づいてもらうために私は日々活動しています。理屈で理解できるものではないので、この身をどこにでも運んで、その事実を見てもらうようにしています。そして、それが理屈抜きに自然の働きで時代を変えることになるのです。一人では何もできないと言いますが、では何人おればできるのでしょうか?一人であっても「こころ」にはカタチがない事実を認めると自然が働くので人間の意志や努力を超えて時代が変わり無条件に湧いてくる「よろこび」に包まれた社会が現出するのです。今、自然は、そのように働いて世界の恒久平和が実現することでしょう。世の終わりは、また次の世の始まりでもあるからです。人々が気づかぬうちに季節が変わるように時代は知らぬ間に必ず変わります。それを私が実証しているからです。休みも手抜きもない自然の働きであって、自分の努力で今を生きているのではないのです。その事実をこれから先、20年、50年と世に示していきたいと思います。
僕が卒業した小中学校の同窓会とクラス会そして学校創立会に出席したい
平成10年3月に松葉小学校、そして平成13年3月に豊城中学校(共に愛知県豊橋市)を卒業した安間道貞です。同窓会とクラス会、そして、学校創立記念式典に出席したいのは、毎年1回開催される同窓会総会をはじめ、松葉小学校6年1組クラス会約35人と豊城中学校3年2組クラス会約40人。平成28年度の松葉小学校創立120周年記念と平成29年度の豊城中学校創立70周年記念をそれぞれ元同級生約70人と約120人を10年以上会っていない当時の児童や生徒と再会するのは同窓会です。同窓会会員名簿などが入る平成28年度の松葉小学校創立120周年記念誌と平成29年度の豊城中学校創立70周年記念誌をセットで購入する前に、僕の住所は愛知県豊橋市駒形町で、郵便番号は「441-8145」です。僕の給料袋から出すのは同窓会費やクラス会費、そして学校創立記念誌のセット購入費を納めたいと思います。どなたか同窓生をご存じの方は、ブリリアント(Tel 0532-46-0033)まで、ご連絡ください。
納豆・ニンニク・酢の危険
押入れを総ざらいしたおり、下敷きになっていた古い新聞を見つけた。それが‘88.6.1.No67『健康道場』なるB4版の4ページの新聞だ。発行元は桜沢系統の食養会である。で、私が目に付いたのは最後のページ上段に300~400字ほどの小論文三つである。「原発事故より怖いバイオ事故」、「納豆・ニンニク・酢の危険」そして「養生あっての医学、頼り過ぎないように」というものだ。25年も前に既にこんなことが謂われていたのかと改めて衝撃を受けた。今回は首題のテーマを紹介したい。因みに「養生あって~」の論説者は日野原重明さんだ。
私はほとんど毎日納豆を、善玉菌摂取の発酵食品でタンパク質であることから食している。餃子やニンニクは時節食べており、生野菜のドレッシングには酢ベースをよく使う。血液サラサラに卓効あるとかで、より添えるようになった。また、父が長年に亘りクエン酸を服用していて、自分なりに効果があったのだろうか、私にも勧めてくれた。酒が過ぎたなときにクエン酸を服用してみるとすっきりする気分を感じた。もともとはアルコールの中和には果物いいとは、このクエン酸の成分である。
父は血圧が高いとか動脈硬化があったので、いい方向ではあったようだが、逆に貧血気味であったのだが、私には少なからずそれが疑問であった。
『宮崎医大の教授の研究発表では、「納豆の成分に血栓を溶かす作用があること。ニンニクの成分には血小板の凝集を抑制する作用があり、血栓防止効果が著しいことがわかった」というもの。』
一時、酢の健康法というのが流行った、動脈硬化や血栓症に効き、血圧を下げるというもので、今でも「クエン酸健康法」、「バカ・ケチは酢を飲まない」なんて本も出回っていましたが。
つづいて、『血栓を溶かすということは、溶血つまり赤血球を壊すということで、結果貧血状態になり、命の危険さえ伴う恐れがある。事実、納豆・ニンニク・酢のとり過ぎによる貧血の実例はたくさん見てきた。』さらに、『動物性の取りすぎによる血栓を溶かす効果はあるかも知れないが、長く続けることは危険である』と論文は結んでいる。
導引医学は、血液は“命そのもの”であるから、赤血球やリンパ球なんぞ破壊していいわけがない。血小板は血止めをする役目を担っており、それを阻止しては、ケガで出血したとき血が止まらなくなり危険でもある。肝臓を患って機能低下すると血小板が減少して止血しにくいといわれている。
その一方で毎日ニンニクの摩り下ろしを味噌汁に入れ摂食している元気なお祖母ちゃんや、焼ニンニクを食べてる方やら元気溌剌な人もいるのは事実ではある。
ニンニクと並び強請強壮薬食として“朝鮮人参”があるが、これも過剰は早死に至る場合もあるという。我々の幼少のころは、寿司なんてお祭りぐらいのものであった。それが今や回転寿司店も増え安価に手軽に行き着けるようになりましたが、頻繁に子供さんに食べさせるのも酢の危うさがあるように思う。
全体をみない、部分的な健康法に完全な健康法なんてありえないし、必ずや落とし穴があるものだとは、ヨガの教訓である。
鈴木光雄さんを偲んで
前の寮長の鈴木光雄さんが亡くなられてから、早いものでもう4年になります。寮生から「みっちゃん」と呼ばれて慕われていた鈴木さんも、病魔には勝てず長い闘病生活の末、天国へと旅立たれました。
みっちゃんが生きているときには、毎週木曜日のお話し会で、いつも最後の締めくくりのお話しをされていました。自分の体験や日々の生活の中からにじみ出てきたエキスのようなお話しを、自分自身に言い聞かせるように話していた顔が今でも鮮明に思い出されます。断酒会の会員でもあったみっちゃんは、「一日断酒」をモットーに、毎日お酒の魅力と闘っていました。その苦しい闘いから得られた体験を、断酒会でも語り、お話し会でも語ってくれました。
ブリリアントができてから20年が過ぎましたが、そのうちの16年を、ブリリアントの一員として闘ってこられたみっちゃんの存在を私たちは忘れるわけにはいきません。みっちゃんのことを知らない寮生も増えてきましたが、あの温かい笑顔で教えてくれた色々なことを思い出しながら、今日一日を精一杯生きてみたいと思います。みっちゃん、本当にありがとうございました。
私の10年
私はブリリアントで10年お世話になっています。私がブリリアントに来たのはH14年12月12日でした。この年の5月5日に10周年の講演が行われました。私が来て翌年に慰問活動とお話し会が始まりました。食後の体操もこの時に始まりました。
私が来て今のブリリアントができたのは、私のためばかりではないと思いますが、飛躍的に変わりました。ブリリアント祭ははじめからやっていました。お世話人の奥さんの指導とその時関わってくれた支援者の杉本さんが今の慰問活動の礎を作ってくれました。ブリリアント祭の出し物はいろんな人が出演してくれて今のブリリアントが出来ています。私自身も歌はヘタなのでヘタなギターで勘弁してもらっています。高3の時からドレミから始めて愛のロマンスが弾けるようになり、ハートインで300名の前でトップに弾きました。ブリリアントに来て4~5年経ってからギター教室に通い、レパートリーを増やし7曲ぐらい弾けるようになりました。
いつの日か毎年年1回の一泊旅行のまとめ役を引き受けるようになり、今まで富士山2回、下呂温泉、茶臼山、篠島、南知多などその県の観光課で資料を取り寄せ、その資料をもとにコースなどを決めみんなの意見をまとめ楽しい旅行を行っています。それといつからか私も古株になり、寮長を引き受けるようになり、今ではブリリアントを出る支度(自立)を考えて今まで不動産屋に行きアパート探しをしてきましたけど、何件申し込んでも審査で落ちてしまい何故だろうと考えたけど、私が障碍者だから信用がないのか、いや障碍者でもアパートに入っている人もいるので不思議でなりません。私が100万円くらい持っていて私のパートナーを見つけその人がアパートに入るというやり方が一番可能性があるのだけど今から結婚してくれる人を探さなければなりません。それも大変な事でお嫁さんを募集します。こんな事ではいつ自立出来るのか?もしかして自立出来ないかもしれません。私は行くところもないし、アパートしか有りません。希望を捨てずにかんばっていくつもりです。
私の過去の思い出の中に北九州に行ったことが有ります。朝の6時に出発して夜の6時過ぎに北九州の職親会の知り合いである土谷さんを偲んでブリリアント初女性の寮生Jちゃんも行きました。東名~名阪を走り、途中秋吉台の鍾乳洞にも寄って行きました。よく行ったと思っています。だたひたすら高速道路を走っていきました。
最近6月6日・9月3日に予防医学フォーラムという講演に医師2人とエベレストを80歳7ヶ月で3度目の登頂に成功し偉業を成し遂げた三浦雄一郎氏の講演に、名古屋のキャッスルホテルに行って来ました。私は私の父と重ねて父が生きていたなら、この位の年になるだろうなあと三浦さんが他人と思えぬ気がして私の父も尊敬出来ると重ねて見ていました。親近感がわいていました。講演も素晴らしかったのだけど何度も生きて帰ってきてこそ、その偉業を認められるのだと本当に生きて帰って来てくれて良かったです。80歳でこんなに元気でエベレスト登頂出来たことで私も大変元気をもらいました。ホテルキャッスルのごちそうも美味しかったです。観光バス3台で豊橋から行って来ました。三浦さんが偉業を成し遂げたのは今年5月のことです。三浦さんの話を聞いていると死と隣合わせで100人中30人くらいの人が登頂出来ると言っていましたけど、それにしても凄いことだと思います。
半月板
去年の8月頃から痛み出した左ひざがいまだに痛いです。それから病院に行きヒアルロン酸と痛み止めの注射をしてくれてだいぶ善くなりました。それからまた痛み出して今度はリハビリをしたりあまり痛くない時に散歩したりしています。やはり体を使わないと善くならないので動くよう努力しております。足とは一生の付き合いですのでかばいあって生きていくしかありません。あまり痛いときは歩くのを控えております。サプリメントでグルコサミンを飲んでおります。何となく良い感じがしております。皆さんを始め奥様が気を使ってくださっておりますので、大変ありがたいです。健康が一番です。50歳60歳を過ぎると、いろんな所が悪くなりますので気をつけております。最近痛くなり8月19日に病院へ行きましたがいまだに痛いです。
ブリリアント結婚式
「もしもし、奥さんですか? 僕山本です。わかりますか?」「山本?」
「山本邦彦です。ブリリアントにお世話になっていた。ホラ、芳賀さんとか、那須田さんとかといっしょに。」「ああ、ここで結婚式を挙げた方?」「そうです。ご無沙汰しています。」
私はやっと理解した。以前ブリリアントにいた寮生からの電話である。彼は職場で知り合った女性とめでたく結婚し、自立した人であった。ブリリアントの新聞を読んで、社長が亡くなったことを知り、今年初盆なのでお参りをしたいということである。奥さんも息子さんもいっしょに来るという。私はビックリするやら嬉しいやらで頭の中が急に忙しく回転しだした。
あの時、彼の付き合っていた女性は妊娠7ヶ月だった。彼は責任をとって結婚すると言う。彼女の身内の方があいさつに来られたのを今でも覚えている。
「おめでとうございます。」という私のあいさつにニコリともせず「とんだことになった」とでも言いたそうな顔をしていた。なぜなら彼女も精神の病を抱えていたからである。病気の者同士、結婚なんてとんでもないと思っていたらしい。まして子供が生まれるなんて。結婚すると言ってもお金が無いので式も挙げられないと言う二人に、じゃあブリリアントでやろうかという“手作り結婚式”を私は提案した。しかし、結局、二人の身内の方はだれも出席はしてくれなかった。
以下は17年前にその模様を私が書いたものです。当時のくすのき新聞に載せていただきました。
ダンダーダダン、ダンダーダダン、ダンダーダダンダンダンダン、ダーダダンダンダンダラララララ 高らかに鳴る結婚行進曲、シズシズと進む花嫁と花婿、先頭をきって行く少々照れ気味の社長、一番後から花嫁のドレスの裾を気づかいながらついて行く管理人のSさん。
今日はブリリアントの寮生Y君と、同じ農場で働いているMさんの結婚式。Mさんもまた障碍者である。場所はブリリアントの地下ホール、6時30分の開演だ。「花嫁と花婿のご入場です。」司会者の緊張した声の響きに誘われて地下室へ降りて行くと、そこは満場の割れんばかりの拍手。来賓には議員の先生、家族会の会長さん達、小規模作業所の所長さん、ケースワーカーの先生方、また同じ精神障碍の息子を持つお母さん方、Y君とMさんの会社の上司などの面々が並ぶ。ブリリアントの寮生達も神妙な面持ちで二人を見守っている。やがて花嫁、花婿は壇上の席に着き、拍手も鳴り止んだ。県会議員のA先生の祝辞に始まり、来賓の方々のご挨拶が続き、ケーキカットの段になる。「お二人の最初の共同作業です。カメラの方はどうぞ前に来て下さい。」YとMのイニシャルの入った小さなウェディングケーキ、紅白のリボンのついたナイフを持ち、二人は立派に最初の仕事を成し終えた。さあこれからが大変、大波小波を乗り越えて進む二人の船の行く末は。どうかガンバッテいってほしい、きっと彼ならやれると思う。
「花嫁と花婿はお色直しのため中座します。」
花婿のモーニングは持ち主の社長よりもよく似合い、花嫁の白いドレスは妊娠7ヶ月のお腹をスッポリ隠していた。
さあ今度はとてもよく似合った白いドレスもベールも脱ぎ、ピンクのドレスと頭には造花を飾った。社長のアイデアによるキャンドルサービスの始まり始まり。「お色直しも新たに、お二人によるキャンドルサービスです。どうぞ盛大な拍手でお迎え下さい。」二人は花やリボンで飾ったチャッカマンを高く掲げ、真っ暗な会場に進む。テーブルごとに立てられたちっちゃなロウソクに火が灯る度に拍手や歓声が沸き起こる。「おめでとうお。ガンバッテね。」喜びに満ち溢れた二人の顔が写し出されたり消えたりしながらやがて壇上の大きなロウソクに火は点火される。大きなどよめきと共に第二部が始まった。
ケースワーカーの先生による乾杯の音頭、真ん中の大きなテーブルには手作りの料理が所狭しと並べられている。巻き寿司、いなり、うずらの串フライ、刺身、また今日の結婚式の出席者、家族会のTさんの作による鶏肉の真ん中に鶉の卵が入った高級料理、ケーキ、クッキー等が、庭に咲いている菜の花のデコレーションをあしらわれ、美しく盛られている。
歌自慢の寮生のHさんをかわきりに、お祝いの唄がカラオケで次々と歌われ、昨日入寮したばかりのK君は、二人のために自作の詩を朗読した。家族会のIさんもすばらしい歌声を披露してくださった。
ゲームあり唄ありのパーティーもやがて終わりに近づき、記念品の贈呈になる。寮生全員が前に進み出て、寮長のOさんが代表でお祝い品を渡した。家族会のTさんは昨夜2時までかかって作られたという押し花の額を二人にあげた。「これは息子とわたしの合作なんです。息子は色彩感覚がとてもいいもんですから、彼に教わりながら作りました。」障碍者の息子さんと母親のつながりのすばらしさを見せつけられた気がした。
いよいよ寮長のOさんの終わりの言葉となった。
いつもは禁止のお酒も今日だけはOKとなり、Oさんはかなり飲んでいた。ロレツもうまく回らなくて何を言ってるのかよく分からなかったが、二人を祝っての挨拶に違いない。ところが段々Oさんの顔が歪みだし泣くとも笑うとも見分けがつかなくなり、やがて顔はクシャクシャとなった。ドッと涙が溢れ出し、「おめでとう。よかった。おめでとう。」ただそれだけを繰り返し涙で泣いていた。会場もシーンとなり、あちこちですすり泣きの声が聞こえた。Oさんありがとう。なんてすばらしいお祝いの言葉だろう。
Oさんのすばらしい挨拶で閉められた結婚式であったがわたしは今までのどの結婚式よりも最高のセレモニーであったと思う。
T君、Mさん、おめでとう。障碍を持った人達に夢と希望を与えてくれたお二人を心より祝福します。どうぞ結婚生活頑張ってください。
ピンポーン、のチャイムとともに玄関に現れたのは、17年ぶりの山本君と奥さん、息子さん。さっそく仏壇に手を合わせてくださった。あの時の彼女のお腹の中にいた赤ちゃんは立派な高校生になっていた。父母想いで明るくやさしい息子さんだ。お母さんの方はあの当時とまったく変わらない、明るくて無邪気な奥さん。山本君は一家の主らしく貫禄もついていた。三年前に家も建てたという。病院へは通っているものの、職場は東海有機から別の会社に変わり、そこでずっと働き続けたそうである。私はビックリしたというより、感激で胸がいっぱいになった。「よくやったね!! がんばったね!!」それ以外の言葉は出て来なかった。
彼等は障碍を持つ人達の希望の光。ブリリアントの宝。ブリリアントの20年を振り返りながら、私はブリリアントが残してきた足跡、また、これからの未来を思わずにはいられない。“一人でも多くの人に幸せを!!”これがブリリアントの永遠のテーマであると思う。
入寮から3年が過ぎて
私にとってグループホームブリリアントとは、心が落ち着く場所、憩いの場所、家庭的な場所といっていいんじゃないかな?でも現実は社会に羽ばたいていくための施設でした。そのために必要な条件や規則がありました。私が思い描いていたブリリアントではなかったんだってことが分かりました。生活訓練の場所だったんだって。
ここでは、いろんな行事も行われます。畑の仕事(畑の草取り、野菜の苗の植え付けから種まきなど)、朝の散歩、食後の反省会と体操、お年寄りや障碍者の施設への慰問活動、研修旅行、ブリリアント祭、クリスマスの感謝祭、誕生日会、毎週木曜日のお話し会、曽我先生のカウンセリングなどなど、参加することでそして普段はそれぞれの作業所で職業訓練を受けて前向きな気持ちになっています。楽しみや喜び、充実感を味わってほしいのがモットーです。一人ひとり自分の将来の目標に突き進んでいくのがモットーです。自分はどうだろう?
普段の私はどうかというと、奥さんにグチや泣き言、心配事をとにかくぶつけて、あげくの果てに「いいかげんにしなさい!」って叱られています。最後は「なっちゃんは要するにそれで満足してるのよ。ヒマなのよ。」って説得を受けています。まあ、こんな調子で毎日磨かれています。
私からすると厳しい一言や冷たい一言に思えますが、それでもめげずに逃げずに嘆いても嘆かずに(わがままを言いたくなる気持ちはあっても)日々歯を食いしばって今日一日を生きています。何事も逃げていては進歩もいいこともないよって私に教えてたで。
いろいろと心配事や悩みごと、不安もいっぱい持っているけれど、少しずつ片付けるようにしていけば、ためないようにしていけば、もっと生きるのが楽しくなるのかな?もちろん教えられたいいことを素直に受け止めて、行動に生かせば。
行事報告 平成25年7月~9月
7月
7/3 (水)「ブリリアント」慰問(珠藻荘)
7/6 (土)・7(日)一泊旅行(下呂温泉)
7/9 (火)お骨納め(延暦寺)、太鼓の練習(さくらピア)
7/15(月・祝)畑の仕事
7/20(土)畑の仕事、祇園の花火大会
7/23(火)太鼓の練習(さくらピア)
7/26(金)お骨納め(梅田川霊園)
7/27(土)ゆいフィールコンサート(豊橋文化会館)
7/28(日)曽我先生カウンセリング
8月
8/3 (土)畑の仕事、海水浴(女ヶ浦海水浴場)
8/4 (日)戦後昭和の暮らしの中の楽しみ展・ロビーコンサート(豊川民俗資料館)
8/6 (火)太鼓の練習(さくらピア)
8/7 (水)七夕
8/10(土)畑の仕事、鶏小屋掃除
8/13(火)初盆行事
8/16(金)盆踊り大会(グループホームたけのこ)
8/18(日)曽我先生勉強会
8/20(火)太鼓の練習(さくらピア)
8/24(土)畑の仕事、豊障連夏祭り(さくらピア)
8/25(日)いきいきフェスタ(ライフポート)、曽我先生カウンセリング
8/31(土)「ブリリアント」慰問(若菜荘)
9月
9/3 (火)予防医学フォーラム(ホテルキャッスル)
9/7 (土)畑の仕事
9/8 (日)高太郎誕生日
9/10(火)太鼓の練習(さくらピア)
9/12(木)誕生会(里枝、貴士、高太郎)
9/14(土)畑の仕事(種まき)
9/18(水)竹やぶ、垣根直し
9/21(土)畑の仕事、鶏小屋掃除、「ブリリアント」慰問(若菜荘)
9/22(日)AKIRAライブ(童里夢)
9/29(日)曽我先生勉強会、カウンセリング
イラスト:高井宏、内田一恵
ブリリアントにご協力いただいた方々
今泉良美様、万久商店様、吉川武彦様、澤田竜弥様、位己光児様、森下昌洪様、大須賀良子様、杉浦依和夫様、曽我洋秀様、菅谷君男様、小川一平様、佐溝力様、北川藤良様、清水伸太郎様、稲地扶美子様、金原康純様、井上浩様、高井宏様、大村守様、レスポワール様、豊橋善意銀行様、豊橋社会福祉協議会様、東海有機(株)
ブリリアントにご寄付下さった方々
井上浩様、大須賀良子様、立岩牧場様、万久商店様、兵藤昇様、生田尚子様、 豊田政彦様、山本邦彦様、黒木武彦様、デイサービス和様、平尾洋子様、曽我洋秀様、河合邦明様、北川藤良様、清水伸太郎様、大石郁子様、レスポワール様、木下様、 今泉良美様、矢治悦子様、河合きほ様、さざなみ様、山本邦彦様、豊田政彦様、 佐羽尾様、藤井様、稲村絹代様、ピュアオフィス矢車草様、佐溝力様、伊藤洋様、 杉浦依和男様、山口京子様、野田様、椰子の実様、大橋温様、金原博昭様、金原光昭様、グループホームたけのこ様、豊橋善意銀行様、東海有機(株)
いろいろとご協力、ご支援ありがとうございました。
毎週木曜日の夜6時30分から、「お話し会」を行っております。どなたでも参加できますのでどうぞお気軽にお越し下さい。
編集後記
相変わらず風当たりが厳しい日が続いています。でもその中に自分でもできることがきっと見つかるかもしれません。
台風18号が各地に被害をもたらして去った後、一気に秋めいて来ました。朝晩冷えるようになってきましたので、皆様お体には十分お気を付けください。
9月8日に孫の高太郎が生まれて私もおばあちゃんになりました。寮生達の優しい笑顔も多くなりました。ブリリアントはますますにぎやかになりそうです。